9月第2例会は、「観月例会&チャーターメンバーを称える会」です。担当の第3副会長増田さんが企画をし、自分で実施もしています。恒例の狸ですが、例年は新入会員が着用すると決まっていますが、今年は三体の内、中井さんが東京出張とかで欠席、その代役は元会長大物の馬場さんが務めていました。
栗林ライオンズクラブ、過去には「チャーターメンバーと準チャーターメンバー」数人を称えていましたが、今ではチャーターメンバーL大住省司だけになってしまいました。
一人大臣になって、もう4~5回になりますか。歴史を語る人が、減るのは残念です。もうあと3年ですか、ライオンズクラブ国際協会が誕生して100年を迎えます。日本に誕生してからは、70年ぐらいだと思います。日本へはなぜか、フィリッピンのマニラライオンズのスポンサーで、東京に根付きました。
私は昨年と一昨年、なぜか欠席をしています。毎年9月第2例会は、家族会の次ぐらい盛り上がります。クラブ結成から52年になると、どのクラブもチャーターメンバー(結成時は47人いたそうです)はほとんどいなくなっています。30歳で入会しても80歳を越える計算ですから、当然ですね。
私は、チャーターメンバーL大住省司に公私にわたり、大変お世話になっています。私は当時のアクティビティー「栗林奨学会」の、初代奨学生でした。そのため3年間、奨学資金をクラブから頂きました。従って、年次報告のため毎年1度、クラブ例会に母子で呼ばれていました。
そんなご縁で、結婚式仲人とクラブスポンサーは、「栗林奨学会」の生みの親と言われていた樋端先生でした。29歳で、不動産業に従事するようになって挨拶に行くと、大住さんにクラブ入会を奨められました。実質のスポンサーは大住さんですが、この頃の入会という手柄は、会長とか功労者へ譲っていました。
奨学金は返還不要でしたから、貰ったのと同じ3年程度の在席で良いだろうという実に安易な気持ちで入会しました。それが半年後には執行部入り、副という肩書きでしたが、司会進行役の「ライオンデーマ」をしていました。結果30年以上在席するとは、本人は勿論、誰も考えていなかったことです。
そして7月、弊社の会長就任式で、私が拙い毛筆書きの巻物をしたため最後に読み上げたのですが、私もどんなこと書いたか詳細を忘れた位でしたが、「お母さんの仏前に奉呈するように」きつく叱責されました。勿論今では仏壇にあります。ありがとうございます。