本当に個人的な話題で、申し訳ありません。今日はサチ子の4回目の命日でした。4年は特別なことはありません。静かに墓参りです。数日前にかみさんが、墓の清掃と花飾りをしてくれています。私は新しいチャッカマンを買い求め、線香と蝋燭をもって墓参りです。
私は昭和37年8月25日、父親茂を肺がんで亡くしています。それから母親サチ子に育てて貰いました。今今月17日に、高商で後輩の前で喋る原稿を作っています。私の64年10ヶ月の恥を赤裸々に語りたいと思っています。その中にも当然、父親の死と母親の献身的なその後を書いています。
母サチ子は、熊本市郊外の生まれです。24歳で父親松野茂と結婚します。茂がミシンの販売営業マンとして熊本へ行っていたのは、私も聞いたことがあります。そこで知り合ったサチ子と出会って、長男の茂は彼女を高松へ招いたのです。この頃は、今の国際結婚ぐらいの距離がありました。母親の覚悟に敬服します。
サチ子は、2男1女を授かります。私が長男ですが、次男の「光明」は幼少期の病気で2歳を全うせず病死しました。私の兄弟姉妹は、(堀)恵三子だけです。父親は写真のように、なかなかの男前です。その当時(昭和26年)の九州と四国は、あこがれのハワイ航路とは言いませんが、高松―別府の船も長い船旅でした。
父親の死亡は、私の10歳の時です。本人は37歳でしたから、闘病生活は壮絶を極めたと思います。私も父親に、叱られてばかりの毎日でした。暗い家庭を何とか明るくしようとした私に、父親は「お前はおしゃべりでつまらん」と言いました。私は陰で泣いていました。それでも明るく、へこたれずひたすら明るく。
私と母親が決定的に意見の相違をみたのは、私の大学進学でした。母は、香川大学進学を希望していました。私は東京6大学へ進学したいと希望していました。結果わがままを貫いて、明治大学へ進学しました。頭は良かったのだけど、片親だったから東京を諦めたという言い訳は嫌だったのです。
あれもこれも、抱擁してくれた母でした。生まれが8月の暑いとき、鬼籍入りが寒い2月、人生を幅広く生きた松野サチ子の人生でした。今日は密かに母親の命日を、ある意味楽しんだ1日でした。墓前で私が願うのは、「なんまんなんまんありがとう」それだけです。母に頼むことは、もう何もありません。