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香川県の挑戦 昭和の3大ビッグプロジェクト
香川のくらしが分かる2017年版、「100の指標から見た香川」が発表された。ベスト10位以内は前回より二つ多い24項目になったが、1位の項目は3年ぶりになくなってしまった。上位常連の預貯金残高(16,257千円/人)は、2年連続で3位をキープしている。この数値は、これからも大きく崩れることはないだろう。

各種統計データーからも、香川は可もなく不可もない、目立たない一番小さな実に平凡な県と言えよう。しかし小欄でもたびたび取り上げている交通事故発生件数、人口10万人あたりの事故件数約700件でワースト4。さらに悪いことには、死亡者数がワースト1・2位となっている。

交通事故にあっては、ハード的には信号設置・道路整備・道路舗装普及率ともによく整っていると私も思います。県面積も最小なのに、そんなに急いでどこへ行く天国かと揶揄される。県民の、緊張感のなさが原因か。温暖で風光明媚、風水雪害のほとんどない香川。私はそんな香川が、大好きなのですが、運転マナーは確かにいただけない。

このように平凡な香川だが、昭和30年代から40年代の高度経済成長期の香川3大ビッグプロジェクト「番の州埋め立て」・「香川用水」・「瀬戸大橋」は、全国に誇れる偉業だと思う。表題の展示会が、高松市林町の県立文書館(県立図書館と同じ建物)で6月中旬まで開催中というので、本日さっそく行って見てきました。

「瀬戸大橋」のコーナーでは、赤字に白抜きで「悲願の瀬戸大橋開通」と大書された四国新聞特別号外も掲示されていました。昭和63年4月10日のことです。「夢街道」と書かれていて、今から28年も前のことだが、上層階の高速自動車道の下、つまり鉄道線路の部分には新幹線用のスペースもすでに用意されている。そして28年間、橋のバランスを取るために、そこに「おもり」を置いているという。

さらにこんな小さな県だが、「塩飽諸島を橋台として架橋連絡せしめば、常に風波の憂いなく、南来北向東奔西走瞬時を費やさず、それ国利民富これより大なるはなし」。明治22年5月、県議会議員だった大久保諶之丞(おおくぼ じんのじょう)が提唱した瀬戸大橋構想。

その100年後に、世紀の大事業は完成したのです。残念なことに瀬戸大橋構想の気運の高まりは、昭和30年の国鉄宇高連絡船紫雲丸の沈没事故でした。瀬戸内海特有の濃霧で、高松-宇野間の連絡船が衝突事故を起こし、大勢の修学旅行の学生が犠牲になった惨事です。

大久保諶之丞といえば、「笑わしゃんすな百年先は 財田の山から川舟出して 月の世界を往来する」との都々逸(どどいつ=流行俗謡。雅言を用いず、主に男女相愛の情を口語をもって作り、ふつう七・七・七・五の4句からなる)は殊に有名ですが、少し説明をします。

この「財田の山から川舟出して」は、同時に取り上げられている「香川用水」のことです。香川用水は、高知県の早明浦ダムに貯めた水を徳島県の池田ダムに運び、徳島用と香川用に分けて吉野川から取水されている。

その比率は昔からのいきさつで、決して同量ではなく、1994年の高松砂漠と呼ばれた大渇水時には、もっと比率を上げてくれと香川から哀願の声が上がるほどひどい状態であった。早明浦ダムが干上がって、途中の池田ダムの水の取り合いになったのです。

香川用水の続きですが、香川へは北へ阿讃導水トンネルで財田まで20㎞通して、抜けた水が東部および西部幹線水路に分配される。分岐点周辺は、香川用水記念公園として整備されている。ここへは2000年今から16年前だが、高松栗林LC山田照雄会長の夏に、バスで家族旅行として行った思い出がある。ライオンズクラブは、知らない世界に導いてくれる。

また東部幹線水路は三豊市で高瀬支線に分かれ、その後、琴平町、まんのう町、丸亀市、綾川町、高松市、三木町、さぬき市と経て、東かがわ市まで伸びる全長約74kmの幹線水路。1994年までは、これで「讃岐の渇水災害」は無くなったと胸をなで下ろしたものだった。ところが。

平成6年(1994)の大渇水を経験した香川県人は、学習をして香川用水調整池(宝山湖=東部幹線水路の途中、三豊市にある貯水量300万㎥の貯留施設)を作り、非常時に備えることにして、それから以後渇水災害は発生していない。

香川用水はまた、用途別に「農業用」「水道用」「工業用」に分けられる。決して「水道用」だけでは無いのです。ため池が県内には64,000箇もあって、農地も随分減っていると思うが、「農業用」はそのまま残っている。水は、昔も今も複雑だ。

少し長くなるが「瀬戸大橋」のことにも、もう少し触れておこう。展示されていた資料の、「本四連絡鉄道計画路線図(昭和41年5月丁度50年前)」には、A.本四淡路線(明石-鳴門ルート)、B.本四備讃線(直島ルート)、C.本四備讃線(木槌島ルート(注)大槌島の誤りか)、D.本四備讃線(下津井-坂出ルート)の4計画があったと記されている。

結果としてD案が採択されたのだが、そこには「番の州埋め立て」との利害関係が透けて見える。昭和40年12・21、「番の州汚職事件」で高松地検が大久保県議会議長を逮捕(四国新聞)。D案は、利権の結果のルートだったのかも知れない。

おりしも昭和38年から始まった、備讃瀬戸航路等の浚渫土砂を番の州埋め立て土砂として使い、番の州埋め立て工事自体が安かったことも事実である。さらに番の州に、D案の瀬戸大橋橋脚を作った。やはり利権の臭いがする。

というのもその他のルート、例えばB案は岡山県の宇野から直島を経由して女木島に入り、高松へつながっている。2010年から3年ごとに開催されている瀬戸内国際芸術祭を予想していたら、案としてはB案が面白そうに思う。その当時の状況を知らない門外漢が、何を言うかと罵倒されそうにも思うが、今の橋脚の島「与島」は閑口鳥が鳴いている。

瀬戸大橋でもう1つ。開通当時のマイカー通行料金は、片道5,500円だった。せがれ2人に「父、岡山のラーメン食べに行こうよ」と言われた私は、「息子よ高松でステーキ食べさせるから」とせこい言い訳をしたのを今でもよく覚えている。28年前のことです。10歳くらいのわが子らは、実に素直だった。


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| 社長日記 | 08:58 AM | comments (0) | trackback (0) |
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