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香川のリーダーたちシリーズ中野屋社長・中野吉貫さん
四国新聞の経済欄に、表題のコーナーがあり、香川を代表する経営者及びそれに準じる人が登場しています。もう30余名になるだろうか。今回は、中野屋社長中野吉貫さん。今人気の金比羅宮表参道に君臨する「中野うどん学校」の創設者ですが、1981年の開校後、20年間は鳴かず飛ばずのお荷物事業だったという。

中野吉貫さんは、69歳。香川県東かがわ出身。実家は薬局で次男。名城大建築学科卒後、大和ハウスに入社し2年間在籍して、71年に100年余の歴史がある中野屋の3代目・陽子さんと見合い結婚して婿養子に入った。それから45年の歳月が流れ、その間に多くの失敗と成功を経験されたのです。

学生時代は、「薬学部へ行かないなら、学費と生活費は自分で稼げ」と父親に言われて、自動車産業の聖地で、新車を東京へ運ぶバイト経験もしたとか。私も学生時代、中野さんとは逆に、東京から九州や東北まで88ナンバー(特殊改良車)を運んでいました。発想の一致するところが、私の中にもあるようです。

また大和ハウスでは、設計に今で言うCADシステムを構築したひとり。創業者の石橋信夫氏の精神や株価の動きから、「この会社は伸びる」と入社を決めた。特に創業者の「他社とは違うことを考えよ」という考えは、中野吉貫さんの経営理念にもなっているようです。

美味いうどんを、大勢に出したい。知恵を絞りひらめいたのが、「うどんを打ってもらい、待ち時間を体験時間に転換しよう」。店舗の一角を使い、奥さんと一緒に始めたのだが、先に書いた通りなかなか軌道に乗らず苦労された。それが従業員・松永澄子さんの一言で、好転のきっかけを得たか。

うどん学校は、まもなく7箇所目が完成し、多い時で1日800人、年間では18万人が受講。うどん学校の売上げは、今や中野屋グループ全体の半分を占めるようです。中野屋の次世代は、婿養子の羽藤寛幸さん。盛和塾香川の塾生で、彼から義父の話はすこしだけ聞いていました。

若い頃の閑散期に全国営業行脚した苦労話も語られていますが、キャンピングカーを活用して成功したのは、「人と違う発想」のもたらした成果物。そして中野吉貫さんとの関わりで、今でも忘れられない思い出があります。

2004年9月30日(土)、前日からの台風による大雨で愛媛県新居浜市の山が崩れて、高速道路から一般国道はたまた市道なども土石流で通行不能となったことがありました。折しも白石富祥さんの葬儀告別式に参列していて、私は東の高松へ帰れなくなりました。

東行が通行止めなら西へと進み、そこから北上し「しまなみ海道(愛媛県と広島県を結ぶ橋)」を経由して山陽道を帰って来ました。岡山からは、また「瀬戸大橋」を渡ります。これを決断した時、新居浜市内で自分の前を行く1台の白のワンボックスカーが、「香川ナンバー」でした。

信号で止まった時に掛けより、「香川へ帰りますか」と尋ねたのが中野吉貫さんでした。経験の無い私に、「ついてきまい」と頼もしい一言。2台共にETC付き車両で、ほとんどノンストップで中野さんは善通寺インターまで、私は高松西インターまで休憩なしで夢中で走りました。

後日談ですが、山陽道経由で2本の橋を渡りましたから相当の高速料金がかかりましたが、申請して新居浜-高松間の料金に圧縮されました。勿論、中野屋社長中野吉貫さんにもこのことはお知らせしました。「人と違う発想」のシリーズは、あと3回土曜日まで続きます。


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| 社長日記 | 08:52 AM | comments (0) | trackback (0) |
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