今年7月から始まった社務所新宅工事が完了し、本日の良き日(友引)に竣工神事と見学会が境内で行われました。お金のことを言ったら伊邪那美大神(いざなみおおかみ)に叱られそうですが、建設委員の私は、当初予算1,600万円から100万円の追加工事で、はらはらしていました。幸いなことに寄進がそれを回り、神のご加護とリーダーの手腕だと感謝。
私は朝、出社してから神社へ行きましたが、早出組のお陰でテントなどの手配が終わっていました。当初は13時からの神事予定でしたが、委員会開催ごとに開始時間が早まって、10時からの神事になりました。素晴らしい天候に恵まれ、滕(ちきり)神社の多田宮司さんら神職の手により、祝詞奏上や玉串奉奠、神事万端滞りなく終えることが出来ました。
私も新社務所へ今日初めて入りましたが、やはり良いものです。ここからの景色は、これまで経験が無く、また神社が好きになりました。心配していた「寄進者御芳名板」は、私の口利きで㈱冨士マーク製作所(冨山貴司社長)に依頼しました。野外ながら軒下で、劣化の恐れは少ない場所ですが、銅板に彫り込みですからなお安心です。
これまでの数々の熊野神社工事で寄進者の芳名一覧に、「松野姓」がなかったもので、このたびは既に物故した父母、祖母の名前も入れました。不動産登記と違い住民票がいらないもので、松野不動産株式会社以下、有限会社松野不動産管理の次に、「松野姓」が8名、名を連ねました。孫がいたら、その孫まで入れたことでしょう。
神社の来歴は残念ながら、資料などの散逸や消失により、年代はもとより当地のいずれの人々によってこの地に創建されたのかも判然としません。記録に登場するのは元禄14年(1701)、赤穂浪士(あこうろうし)の討ち入りが元禄15年12月14日(1703年1月30日)。ここからでも、300余年の月日が流れています。
昭和56年に、私が宅建業に従事し始めた年ですが、境内のクスノキが高松市の銘木に指定されました。その際に、クロガネモチの樹齢が5百数十年と判定されましたが、残念ながら平成18年に枯死してしまいました。仮に600年前の建立となると、室町時代足利氏の時代になります。
熊野神社の所在地は、「高松市出作町191番地1」鎮座であります。出作村は明治22年多肥村、仏生山町の2町村に分属して何れも「大字出作」と称して、住民はそのまま昔通り熊野神社を氏神様として崇敬しています。古くは熊野権現として、親しまれていました。もちろん元祖は、紀ノ國の熊野本宮大社です。
つまり私は仏生山町生まれですが、昔から熊野神社を氏神様としてあがめて参りました。松野のルーツは、旧空港南の上林町であったと聞いていますが、縁あって仏生山町へ先祖が移り住み、仏生山町内の先家の3つは「仏生山町甲」の滕神社エリアですが、今の誕生の地は「仏生山町乙」で熊野神社となっているようです。
また今回の新築工事は、佐伯工務店高松支店が請け負ってくれました。店長の佐伯博英代表取締役の住居は、拙宅の隣、本町通りに面した旧徳栄堂さんの跡地です。私が紹介したものですが、彼がこの地へ居を構えてなかったら熊野神社当番もなく、建築に関与することもなかったかも知れません。不思議な縁で幸運が善循環する、社務所落成です。