昨日は三面記事で、再登場した政治家を書きました。安倍晋三首相や細川護煕元首相や小泉純一郎元総理大臣など、石原慎太郎元東京都知事も、国政へ返り咲いています。その前の日の小欄は、長野刑務所から出てきた堀江貴文氏です。
いずれも二度と、これまでのような脚光を浴びた舞台へ立つことは叶わないと思われていた人たちです。特に期待するのは、ホリエモンです。彼の上梓した「ゼロ」を読んでいると、いつの間にか稲盛和夫塾長に言われているような錯覚を覚えました。若者が、彼に意見を求めるのがよく分かります。
その中でも特に印象的だったのが、「何もないから一を足す」という彼の独白のような文章です。稲盛和夫塾長は、「人生仕事の結果=考え方×熱意×能力」と方程式にして塾生を諭しています。私もこの方程式の通り、誰にも負けない努力あるのみと、迷うことなくやってきました。
しかしホリエモンの言うように、「ゼロにゼロを掛けてもゼロ」という算数も理解できます。何もない者は、まずゼロから一を作り、それを重ねあげて2・3・4としてからかけ算をする。2人が言うことは、決して相反することではなくて、両方が真だと思います。
ところで本日のネタは、伊能忠敬(いのうただたか)です。伊能は現在の千葉県九十九里町に生まれ、17歳で醸造や金融業などを営んでいた佐原の名家・伊能家に婿入りしました。家業を繁栄させ、村の名主としても活躍するが49歳で後継者に家業を託し、50歳で江戸に出ます。
江戸時代と言えば、人生50年。50歳を過ぎてはもう隠居さん。次ぎにやることと言えば村人の仲介役ぐらい。それを伊能は、50歳を過ぎてから日本全国を歩いて回り、はじめて実測に基づく日本地図を作ったのです。こんな下りは改めて私が述べることでもありませんが、人生二毛作というと、私はこの伊能忠敬を一番に想います。
資料は、伊能忠敬記念館のものです。記念館の学芸員は、「学びたい気持ちをずっと持ち、第一の人生を終えた後、やりたいことをやろうと思ったのでしょうかと推測」しています。それも中途半端な業績でなく、大変な功労だったと聞いています。それが全国測量の資金捻出にもつながっています。
測量の技術を身につけた伊能は、1800年、55歳の時にはじめて東北・北海道南部の測量に向かいます。幕府の許可を得て行ったのですが、この第一次測量で、現在価値に直して1200万円もの私財をつぎ込んでいます。支えたのは伊能家の財力でした。
「伊能図」と呼ばれる「大日本沿海輿地(よち)全図」は、伊能が71歳になる1816年まで、10回にわたる測量で作られました。しかし全図が完成したのは伊能没後3年の1821年、弟子たちの手でまとめ上げられたものでした。
地上での地道な測量と、星の動きから割り出して作られた地図は精密で、幕府が長く軍事機密扱いにするほどだと記されています。箱状の「量程車」は、地面の上を引っ張って転がせば、一度に180㎞まで距離を測れるといいます。このような測量機器も、考案されています。