2013,06,13, Thursday
「吉田昌郎と福島第一原発の500日」と副題のついた、2011年3月11日に発生した東日本大震災と、その後の原子炉の暴走を許さなかった、福島第一原発の最前線で指揮を執っていた吉田昌郎(よしだまさお)氏の戦いの500日をドキュメント作品として発表した門田隆将氏の本のタイトルです。
もう泣けて泣けて、JALのCAは6月からの新しい制服に身を包み、にこやかに微笑んでくれていますが、私は泣いていました。メガネをつけているから誤魔化せたかな。自らの命を省みず「仕事」という大義名分で現場に踏みとどまり、4つの原子炉の暴走を紙一重のタイミングで押し込めた吉田所長と男達の物語です。 少し前も百田尚樹氏の、「海賊と呼ばれた男」も読みながら涙が止まりませんでした。「日本国のエネルギー確保のため」という大義名分のため、こちらも命をかけた男らの戦いの記録集です。あれも確か、JAL1402の機内であったと記憶しています。 福島第一原発内1~4号機、全電源喪失、注水不能、放射線量増加そして水素爆発、次におこるとみんなが考えることが原子炉の暴走、つまりメルトダウンです。第一原発でメルトダウンがおこれば、福島第二も東海村の原子炉も無事ではすまず、15基の原子炉がメルトダウンに陥ることは、火を見るより明らかでした。 とにかく原子炉と燃料プールを冷やし続けるほか、暴走阻止の方法はないのです。皆さんもご存じの通り、吉田昌郎所長はポンプ車を使い、自衛隊のヘリコプターからの散水を要請して兎に角冷やすことに意を注ぎました。しかしそれらの必死の努力をあざ笑うように、1号で水素爆発が起こり、さらに続きます。 手に汗握る事故からの3ヶ月、今でも完全に征服できてはいませんが、津波で全電源喪失後に菅総理が、福島原発の1・2号機中央制御室(中操)にやってきて「いら菅」の綽名通り、怒鳴り散らして復旧の妨げをしたことなども詳しく綴られています。 菅総理も、「何とかしなければ」と必死になってやってきたのでしょうが、結果的にはお邪魔虫で、リーダーがどうあるべきかの1つの示唆を与えることになりました。急ぐ場合は、現場は現場に任せるべきです。テレビドラマで東京湾岸署の織田裕二刑事も、「事件は現場で起こっている」と叫んでいました。あれです。 原子炉の無制御が、長時間に渡って完全に不能に陥った、日本でははじめてのことです。みんなが平常心を失ったのは、想像に難くないのですが。それだからこそ、現場に任せるべきなのでしよう。 吉田洋子夫人は、「私は死とかを意識すると、怖いという感じを持ってしまうんですけど、主人は達観しているというか、死をそういうものでは捉えていなかったですね。死ぬんだったら、それはそれでしようがないじゃないかという死生観があって、私でもそういう話を聞くと、ちょっと自分がホッとするようなことがありました。 主人は物事をあるがままに受け入れる、あがいてもしょうがないというか、運命を受け入れるという考え方を元々持っていたと思います」とインタビューの中で語っています。 吉田昌郎(よしだまさお)氏が、福島第一原発で事故後の指揮を執り続け、自宅へ連絡したのは1週間後だったとか。テレビでも彼が東京電力本社とテレビ会議でするやりとりを、私たちは目にし耳にしていました。骨太のおっさんが頑張ってくれているんやと、頼りがいを感じたものでした。 彼は1年後の7月脳内出血で倒れますが、その前に癌で手術を受けています。やはり放射能被爆の影響を疑わざるを得ない。癌治療がほぼ軌道に乗りかけた頃に、脳内出血がおこってしまいます。神も仏もありませんね。 現在は次の所長が吉田昌郎(よしだまさお)氏の意志を引き継いで、ソフトランディングで廃炉へ持ち込むことになりますが、これまた簡単なことではないと思います。一歩誤ったら日本の3分の1は事実上消えてしまうし、残った3分の2も、これまでの日本ではいられません。 全てが福島第一原発の1~4号炉のメルトダウンは防げたとして、進んでいます。そうであって欲しいと願いながら、私なども見て見ぬふりをしています。吉田昌郎(よしだまさお)氏のような身を挺しての恩人がいたこと、われわれ日本人は忘れてはならないのです。 |