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全国ラジオ放送局の一部が放送休止する時代
国内に47ある民間AMラジオ事業社のうち、『IBC岩手放送』など13社が2月1日から来年1月31日の期間内に、放送を一時休止すると言うニュースが聞こえてきた。驚天動地、これには驚きました。民間ラジオ放送局には一般的にラジオ局と言われるAM波と、比較的新しいFM波放送局の2種類があります。高松周辺では『RNC西日本放送(高松市)』がAMラジオ局で、テレビ放送が普及する前の放送メディアの代表格でした。

日本のラジオ放送は、1925(大正14)年3月22日に東京放送局(現在のNHK)がAMラジオ局として東京、芝浦の仮放送所から試験放送を開始したことに始まります。1930年代に入って部品、組み立て方法の改良によってスピーカと本体を一体にすることが可能になり、また、この頃までに各主要都市に10kW程度の大電力放送局ができ、比較的低感度のラジオでも実用になるエリアが増えていました。

昨日の小欄で紹介した『終わらざる夏・上中下』巻の中で、浅田次郎氏は東京から2千キロ以上離れた千島列島の最北端占守島(シュムシュ島)でも、昭和20年8月15日のラジオ放送を聞こうと大勢が集まったと書いています。流石にここまでは電波は届かなかったと思いますが、概ね日本全国北から南まで1千キロは辛うじて網羅したのがNHKのAMラジオ放送でした。

AMラジオ局の維持費負担が重くなる中、より低コストのFM波への転換などを検討する上で、聴取者への影響を検証するのが狙いのようだ。休止する期間やエリアは、事業者によって異なる。これまでの放送行政は、NHK放送を筆頭に既存47局の利権を守ってきた。乱立すると電波が混線し、正常に聞き取りが出来なくなる。恐らく47局の占有する周波数(例えばRNCは1449MHZ、NHK高松は1368MHZ)は、同じモノはなく近隣ではかなり離れた周波数があてがわれている。

AM波は電波が遠くまで届くが建物内では聞こえにくく、大規模な放送設備が必要となる。一方FM波は、電波の到達距離は短いが、AM波に比べて簡易な設備で放送できるメリットがある。特に若者は、テレビは観ないしAMラジオは聞かない、ラジオはFM波が常識で好みは音楽専用局が好まれる。いやもはやそれも古くて、インターネットラジオが当たり前になっているとも言われている。

このように聞くと、時代だとなあとしみじみ思うのです。私も過去にはアマチュア無線を趣味としていましたが、インターネットが普及し、地球の裏側にも簡単に安価に繋がるとなると、高価なアンテナ装置は落雷の心配も倒壊の危険もあって、早々と撤去してしまいました。AMラジオ局の経営は厳しく、AMを廃止する動きが加速しているにもうなずける。

すでにRNC西日本放送も『AM1449MHZ(メガヘルツ)』と、『FM90.3MHZ』の2波を持っている。まだ休止とは聞いてないが、準備は進んでいるのかも知れません。態勢というか、時代というか、ここまで合理化が進んで来ているのですね。新しく誕生するのはなかなか把握しづらいのですが、衰退は目に見えて一気に発現します。そして、恐怖すら覚えるのです。


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| 社長日記 | 09:06 AM | comments (0) | trackback (0) |
終わらざる夏by浅田次郎
帯には、反戦小説と紹介されています。昨年北海道の自衛隊基地を見学した際に、資料館に飾られていた中に、『終わらざる夏上・中・下』が置かれていました。浅田次郎氏は小説家だが、JALの機内誌『SKYWARD』に毎月連載されているエッセイ「つばさよつばさ」では、自虐的エッセイが掲載されています。最近は搭乗の機会もなくなりましたが、希少な機会にも機内誌を開くとまずは社長一言を読んで、次は必ず浅田次郎エッセイに目を通す私です。

その浅田次郎氏が、2010年に集英社(後に集英社文庫)から上梓した長編3部作です。氏は私の1歳先輩、ほぼ同年生で生きた時代の背景がよく似ています。中央大学杉並高等学校卒業。陸上自衛隊に入隊、除隊後はアパレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、『とられてたまるか!』でデビューし、直木賞の選考委員など、今では業界の重鎮となっています。

悪漢小説作品を経て、『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、『鉄道員』で直木賞を受賞。時代小説の他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も含め、映画化、テレビドラマ化された作品も多い著名な売れっ子作家。青春時代の知的シンボルで憧れの存在だった三島由紀夫が三島事件を起こし、“世界中がまっしろになるような”大きな衝撃を受け、陸上自衛隊に入隊、第32普通科連隊に所属。

自分がその後小説家となったこともあり、照れ臭さから当初エッセイでは「2度目の(大学)受験に失敗し、食いつめて自衛官になった」と、三島に影響を受けたことを否定していたが、後にこの動機は事実であると告白している。基礎訓練後に配属されたのは、東京出身だったこともあって奇しくも、三島が自害した市ヶ谷駐屯地だった。

『終わらざる夏』は、浅田次郎氏による小説で、第二次世界大戦末期の千島列島の先端にある国境の小さな島、占守島(しゅむしゅとう)での戦いを描いています。日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍が、8月9日に満州に攻め込んだことはよく知られています。満州関東軍の戦闘は8月15日が過ぎてもすぐには止まらなかったと聞いたが、これと占守島の戦いとはまったく意味が違うのです。

「止めて止まらぬ戦争と、終わってから仕掛けてくる戦争とでは、同じ戦争でもまるで違うと思うのであります」いう少年戦車兵の中村末松の台詞通り、ソ連は領土的野心から、日本が無条件降伏をしたことを承知の上で占守島(シュムシュ島)に侵攻してきた。千島列島(クリル諸島)の先端に位置するこの島にソ連軍が攻め込んで来たのは、玉音放送から三日後の昭和20年8月18日未明。まさに日本がポツダム宣言を受諾した後になって、新たな戦闘を仕掛けてきたのです。

連合軍との間で正式な降伏文書の調印が行われる前に、戦闘→占領という既成事実を作っておこうとしたとしか考えられない軍事行動であります。占守島(シュムシュ島)を含む千島列島は、明治8年に結ばれた樺太・千島交換条約によって平和的に定められた日本の領土であります。人数は少ないが開拓団の家族が居住し、また日露漁業の工場労働者などの民間人もいた生きていた島です。

応戦すれば勅命に反するのではないかという恐れが将兵らにはあっただろうが、国土と国民を守るのが軍の務めであり、それを果たすため、占守島(シュムシュ島)と隣島の幌筵島(ほろむしるとう)に進出していた第91師団は戦闘に踏み切った。2万3千の将兵を擁する第91師団は、現役兵が中心で練度も高く、寄せ集めの師団が多かった戦争末期においては例外的な精鋭だった。中でも満州から引き抜かれてきた戦車第11連隊は、最新の装備と優秀な兵員を備え、士気も高かった。

これはたまたまで、ここから転戦する船がなくなり、結果これほどの精鋭がこの地にいたのであって、決して予想配置ではない。それで、8千8百のソ連軍上陸部隊を迎え撃った日本軍は優勢に立つ。しかし、日本はすでに無条件降伏をした敗戦国であり、勝利するまで戦い続けることは許されなかった。前線に軍使を送って停戦交渉を行った日本軍は8月21日に降伏し、23日にソ連軍によって武装解除される。そして生き残った将兵は、シベリアに送られたのである。

勝てる力を十分に備えながら、決して勝ってはならない-北の果ての国土と国民を守るため、そのような戦闘に生命を賭けたのが、占守島(シュムシュ島)の将兵でした。更にこの島で起こったことは日本国民にはほとんど知られることなく、歴史に埋もれてきたのであります。これを浅田次郎氏は後世に伝えようとして書き残し、現在の北の防人(自衛隊)は多くに読んでもらいたく、本棚に飾っていたのだろうと私は思いました。












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| 社長日記 | 08:33 AM | comments (0) | trackback (0) |
珈笛画廊・ほのほ2024年1月コンサートはイリス記念ツアー
『イリス(スペイン語で虹の女神)』のリリース記念ツアーが、27日の名古屋を皮切りに、29日高松30日松山そして最後が31日伊丹と続きます。バイオリンの柴田奈穂さんとピアノの太宰百合さんが二人で組んだ『イリス』に、高松と松山公演だけギターの智詠さんが加わり、二人の存在を盛り上げます。

私は音楽と絵画にまったく才がなく、これまでにも接する機会がなかったのですが、ここ数年珈笛画廊・ほのほのオーナーからお誘いをうけ、参加しています。皮肉なことに私の二大鬼門の、絵画と音楽の聖地のようになっています。特にピアニストは、この会場とピアノを絶賛します。勿論私は『こんなものか』とならされて、特別視はしていません。罰があらるかもしれません。

オーナーの二見尚子さんは「箱を貸すだけ」と言っていますが、盛んにプロモートしています。加えて井上真由美さんが企画運営に注力しています。このイリス・リリース記念ツアーも、井上女史が実に上手くプロモートしています。『光と影 静謐と情熱 タンゴやフォルクローレ、南米の香りをまとう音の叙情詩』実に呼び込みのつかみが上手です。チラシの写真も、『空、風、生命、夢、音色にのせて 詩のように』で二人の女性を引き立てています。

前段が長くなりましたが、『イリス』はピアノとバイオリンが実に上手く上になったり下になったり、まさに光と影の役割を担って進行しています。二人の演奏も素晴らしいのですが、ギターの智詠さんが加わると、一層味が引き立ちます。東京から松山市に移住し、このツアーも高松と松山公演だけ加わるようですが、高松の参加者は幸運です。ギターがあるとないとでは、失礼ながら雲泥の差です。これは素人感覚ですから玄人うけは分かりませんが、彼が一枚加わるだけで、二人の味が一層美味く出ています。







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| 社長日記 | 09:26 AM | comments (1) | trackback (0) |
愛知県研修二日目は熱田神宮から大樹寺を経由して岡崎城へ
昨日今日と日課のウオーキングが出来ず、疲れた割りには歩数が伸びません。そこで今朝は、名古屋の繁華街『栄』がホテルから近いもので、6時から付近を歩いてみました。流石大都会、まだまだ若者の姿が多い。仕事上がり風もいたり、遊び疲れてひと寝入りした男女がたむろしています。タクシーに、女性一人を乗せる男もいます。カラオケ店頭は、どこもまだ賑わっていて、メシ屋は満席。

今日一番は熱田神社参拝からで、相変わらず大勢の参拝客で賑わっています。次の八丁味噌蔵の『カキキュー八丁味噌』見学は、江戸初期から昭和16(1941)年初めまでが踏襲されていて、手作り味噌造りの一連の工程が再現されています。昭和バブル前の昭和62(1987)年から構想し、平成3年12月1日に開館しています。史料館の建物は明治40 (1907) 年に出来た、発酵の場を兼ねた仕込み蔵を改装したモノです。広さは延べ463㎡(140坪)で、平成8年に国の登録有形文化財に登録されています。こんな保存方法が、今流であります。

『八丁味噌』は、愛知県岡崎市の八帖町(旧・八丁村)で、江戸時代初期から作られてきた豆味噌のことです。八丁村は、岡崎城から西へ約870メートル(8丁)の距離にあったので、つけられた地名です。この地は、矢作川の舟運と旧東海道が交わる水陸交通の要所でした。 江戸時代には土場(船着き場)・塩座(塩の専売)があり、舟運を利用して原料の大豆や塩を調達し、味噌の出荷が容易だったため、味噌作りが盛んに行われました。

次の徳川家菩提寺の大樹寺は、驚きました。ボランティア案内人の加納さんは御年81歳とは言え、声も大きいし、態度もでかい。と言うのも檀家一門の一員として、旦那寺を守っていくという覚悟が自信となって態度に出ています。言葉も方言バリバリで、われわれにはきつく聞こえます。大樹寺は松平家の菩提寺ですから、檀家は殿様1軒。徳川将軍14代の等身大位牌が安置されていますが、明治政府からこちら、130人ほどの檀家が出来ています。その内の名誉ある一人が、加納さんです。

これは高松松平藩の菩提寺・法然寺も同じです。ただ法然寺は檀家を増やさず、墓所を貸出し冥加金収入を得ていました。冥加金を払う町民大勢を味方にして、明治時代前から営々と寺院経営を続けています。ある意味法然寺は、高松城の出城です。井戸が12、米蔵が2つありました。私も法然寺大好き人間ですから、加納さんの心意気はよく分かります。大政奉還後、大樹寺の収入は江戸から届くことはありませんでした。

この危機感から大樹寺はどこからの施しもうけず、檀家130軒余で寺を守っています。昨年は、NHK大河ドラマ『どうする家康』で潤ったと加納さんは正直です。みずから集合写真のシャッターを切り、1000円で販売します。本堂内には物品販売品が多く、収入を挙げる姿勢を貫いています。私は宗教法人も積極的に稼いで、税金を払うべきだとだと考えています。創意工夫しないと生きて行けない世界は、どこでも同じです。

『厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)』大樹寺13代住職が「戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目」と訓し、悩める家康を翻意させ、家康はこの八文字を終生座右の銘とした。もう一つ家康の名言。『人の一生は重荷を負(おう)て遠き道を行くが如し、急ぐべからず。

不自由を常と思へば不足なし、心に望(のぞみ)起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ、勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。

面白い愛知県研修でした。特に松本信一・村山裕子・低田陽介さんに世話になりました。大勢の参加ありがとうございました。










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| 社長日記 | 11:52 PM | comments (0) | trackback (0) |
一般社団法人香川宅建高南支部研修旅行2024
今年は名古屋周辺までバスで移動し、徳川家康関係の史跡を巡ります。心配されていた雪も、見た目綺麗の段階であります。途中の米原関ヶ原あたりは西の豪雪地帯としてつとに有名で、つい数日前には大雪が降り高速道路も通行止めが続いていました。中央アルプスの山々には、横並びにまぶしい雪があります。

今回の企画は支部評議員会で決定した方針を、松本信一副支部長が形にしてくれています。入念な打合せがされていて、丁寧な運営です。特に子どもさんが、徐々に増えています。そのため土日に催行しています。親子の語らいの場であっても、良いじゃないですか。過去には会員の、それも男性中心の企画でしたが、これも時代ですかね。

午後からの立ち寄り先は、『長浜開町450th』を記念して観光客誘致に取り組んでいる滋賀県長浜町。旧北國街道の宿場町『黒壁ガラス館』などを中心に、まちづくりが行われています。屋根にはまだ雪が残っていて、入館者も店の従業員も落雪にハラハラ。特産物として、いろいろなジャンルでガラス製品を産みだしています。

まちづくりの観点からも、興味を感じます。ガラス製品も楽しい作品が多く、多くが買い求めていました。私も芋平できんつばを買い、手作りプラン・クチュール村では、革製品のメガネケースとマネークリップを買い求めてしまいました。ぶらっと立ち寄った店で、オリジナル製品の彼らが「買っていけ」と命じるのでした。これも何かのご縁です。

ここも順風満帆ではないと思いますが、静かな躍動を感じました。次は愛知県に入り、徳川美術館を経由し名古屋市内のホテルへ入ります。名古屋は昨年秋、明大校全国やっていきました。大会はJR名古屋駅周辺で、今日は栄のホテルです。グリーンリッチホテル名古屋、新しい今どきのホテルです。ここから食事処へ移動します。今日はこれでおしまい。







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| 社長日記 | 11:07 PM | comments (0) | trackback (0) |
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