37年ぶりという、実に中途半端な初めての同級会でした。田舎の高松から、プロペラの飛行機に乗って東京へ行きました。そしてはじめて出会った新入生、と言いながらもう卒業生という風格の波江野がいたり、付属高校から来た橋本など、流石は東京だなと驚いた最初のホームルームでした。
60818が私の学籍番号です。頭の6は昭和46年4月入学の「6」です。明治大学政治経済学部は、最初に「政治学科」が5組くらいありましたか。その次が「経済学科」でした。残念ながらこの時は、女子はいませんでした。みんなの意見を総括して統一見解を得たのですが、クラス替えはありません。3年から短大からの編入生で、景山さんと林さんが新たに加わったのです。
景山さんは私も記憶にあります。今では驚くことはないかも知れませんが、当時としては大変な美人でした。今日の会場は、神田神保町ですが、話を聞いていると、個人的に小グループで親交の濃淡があったようです。私も死んでしまった栗川史雄(字が違う?)やそれの雇用者石原順二やとつるんで遊んでいました。
石原順二は次男坊ながら、愛知県の知多半島で瓦を作っていました。栗川が名古屋の古川バッテリーへ1年間勤務して、のちに石原の瓦会社へ転職しました。栗川の下宿へはよく行きました。彼は最初兄さんと用賀に住んでいましたが、兄さんが駒沢を卒業してからは、私の近くに確か住んでいました。練馬区です。
今日の幹事、百田省平で思い出すのは、目黒から東西線の浦安あたりへ引っ越ししました。私はレンタートラックを手配し、栗川やその他何人かで手伝いに行きました。武藤忠数もいたかな。話ししていて、そんな思い出が吹き出してきます。
残念ながら栗川をはじめ4人が故人に、7人が消息不明です。徳島のジャンボ尾崎が監修したゴルフ場の会員権を売りに来た成井茂男も、倒産後は消息不明です。私はゴルフをしないので、髙松栗林LCメンバーの何人かを一緒に回りました。
37年ぶりは、流石にすぐ記憶がよみがえることはありませんでしたが、これからが彼らとの思い出を語る日になると思います。良い1日でした。北海道から四国・九州まで揃いました。大企業へ就職して定年や子会社へ出た奴、自営して現役を続ける奴。孫がいる奴もいましたが、子供がまだ高校生というのもいました。