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仙台藩主・伊達政宗がつないだスペインとの400年
これも過日の仙台訪問で知ったことですが、1613年(慶長18)秋、仙台藩主・伊達政宗の命で、支倉常長(はせくらつねなが)率いる慶長遣欧使節が出航しました。それから丁度400年という節目に、スペインの大統領が来日したり、支倉常長の13代目子孫支倉常隆氏がスペインへ行ったり、交流展なども開催されているようです。

そういえば伊達の殿様が、南蛮交易が盛んになる前に、メキシコ・スペインへみずから造船した船を出したという歴史上の記載を読んだことがありました。この度、仙台勝山館で交流会をしながら、いつもは仙台城にいるという役者一座の語りを聞いて、興味が一層膨らみました。

当時、日本の商人はスペイン領だったフィリッピンと交易をしていました。南蛮漆器を含む日本からの輸出品は、一旦フィリッピンに渡り、スペイン商船は、そこから海流に乗って北上、仙台藩沖を通ってメキシコに日本商品を運んでいました。大いに遠回りをしていたのです。

そこで政宗は、仙台藩がメキシコと直接交易し、スペイン本国から、先進技術を導入することを目論みました。このような説明を仙台城の役者集団は、槍や刀を抜いて演舞しながら語ります。仙台藩主・伊達政宗に扮した役者は、甲に三日月のマークをつけています。これで、政宗であることが一目瞭然です。

準主役の支倉常長は、ローマで肖像画を描かせたと伝えられている伊達衣装(お洒落衣装)で身を包んでいます。あゝこの男が支倉常長かと、これまたすぐに分かります。仙台藩主・伊達政宗は、2年前の「慶長三陸地震津波(1611年)」によって深刻な被害を受けていたのにもかかわらず、巨費を投じて船を出します。

2011年の東日本大震災と津波禍は、400年前にも経験していたのです。1611年12月2日(慶長16年10月28日)、巳刻過ぎ(10 -11時頃)大地震、昼八ツ時(午後2時頃)に大津波(現地時間)と記録されています。

この地震において、現在の三陸海岸一帯は強震に見舞われたが、太平洋側沿岸における震度は4 - 5程度と推定され、地震による被害はほとんどなく、津波による被害が大きかったことから津波地震と推定されています。[その時にも海岸淵の建築は禁止されました。それが400年もたつと、人の忠告と警鐘も語り継がれなくなるのですね。

復興に忙しい政宗でしたが、洋式船「サン・ファン・バウティスタ号」(約500トン級で最初の日本製西洋型軍船。)を建造し、支倉常長ら使節団はそれに乗って、まずメキシコに到着します。さらに1614年にスペインへ到着、国王に謁見し、さらにローマ法王に謁見、出発から7年後の1620年に仙台へ戻りました。

この間に日本が鎖国政策をとったことから、常長訪欧の成果はほとんど活用できず、記録などを隠したとされています。これが花咲いたら、仙台藩が日本の中心となっていたかもしれません。仙台はそこはかとなく、力を感じるところであります。


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| 社長日記 | 08:05 AM | comments (0) | trackback (0) |
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