稲盛和夫塾長の手は、過日のバリー・J・パーマーライオンズクラブ国際会長の手のように、分厚く暖かいものでした。いい男は、いい手を持っているものですね。今日の「中部・北陸地区」塾長例会は岐阜グランドホテルで開催されましたが、フィナーレは、塾長の退室花道です。大勢がそこへ集まります。
先導する諸橋事務局長は嫌がりますが、塾長を囲む塾生は、塾長のそばにいたい、出来るだけ近くで、塾長と同じ空気を吸いたい、そんな思いで遠くから駆けつける塾生の正直な気持ちです。塾長の健康管理や、塾生の無謀を防ぐ立場の事務局の立場も分かります。しのぎ合です。
本日の経営体験発表も、心に沁みる発表でした。盛和塾名古屋・原田久光塾生と、盛和塾北大阪・竹延哲治塾生の2人です。特に3Kと言われる「養豚業」に、革命を起こしそうな盛和塾北大阪・竹延哲治塾生の発表は、まさに農業を装置産業と捉える「狂」と言わんばかりの考えと情熱の発表でした。
盛和塾も中国人の1,500名の塾生誕生など、稲盛和夫塾長のJAL再生の前後から、若い経営者を中心に、新星がどんどん増えてきています。特に本日は、知らない顔顔顔。この濃尾平野の地に、次の勢力ができあがっているように感じました。
余興として紹介された薩摩義士の話しは、全く知らない史実でした。江戸時代の中頃1753年(宝暦3年)の12月、幕府は濃州・勢州・尾州の人々を助けるために、外様大名の雄、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。薩摩藩は平田靭負(ひらたゆきえ)を総奉行に任命し、およそ千人の藩士をこの地に派遣して大がかりな治水工事に取りかかりました。
途中工事費の増額(大阪商人への借金)や設計変更、それに数多い藩士の死(無念の腹切りと疫病)に直面し、大変な困難を伴った治水工事となりました。そして多大な犠牲を払い1755年(宝暦5年)5月に工事は完成しました。幕府からは、1年半での完成を厳命されていたのでした。
この工事は当時の人々の命や財産を守っただけではなく、現在に至る治水工事の基礎として、今に生きる人たちに大きな恩恵を与えています。木曽三川(木曽、長良、揖斐)に灯る明かりは、水と生き、水と闘う証だそうです。その平田靭負(ひらたゆきえ)も、工事完了後この地の露と消えました。
中締めの言葉、盛和塾岐阜世話人・林みち代さんの挨拶もほんわか、林みち代さんらしい挨拶で良かったですね。林さんは、昨日仲良くしてもらった説田好孝夫婦の近くに住んでいると聞いています。林さんに尋ねると「誘ってくれたら行ったのに」と言われてしまいました。林さんも熱心な、追っかけ塾生の一人です。
昨日は岐阜羽島で下車したので、大垣駅とか岐阜駅前を見ていませんでしたが、ここ岐阜市も人口42万人ですから、四国の雄の一つ高松市と同じです。岐阜県全体では200万人ですから、中国地方の中枢となりつつある岡山県と一緒です。名古屋の衛星都市ですが、このあたりは、ポテンシャルの高さが違うようです。
金華山の岐阜城へも、荒天の中、雷注意報を横目に見ながら登ってきました。岐阜城はかつて稲葉山城と称していました。はじめて山頂に砦が築かれたのは、鎌倉幕府の時代で、戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。その後不世出の英傑織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井ノ口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としました。
城下の町家「川原町」へも行ってみました。岡山塾生の吉本さんがタクシーの中で言うものだから、ご一緒しました。その中には旅館や「川原町屋」というCAFÉ&Galleryもありました。豪商紙問屋の使っていた町屋を改造したものです。岐阜の長い歴史と、繁栄を感じました。