2017,08,25, Friday
父は昭和37年の今日、37歳の若さで彼岸へ旅立ちました。私が10歳の夏でした。母サチ子の命日よりも、この日は鮮明に覚えています。偶然別案件でたった一人の妹に電話したのですが、「今日はお父ちゃんの55年やね」と答えが返ってきました。彼女は6歳でした。
艱難辛苦(母親が)を経て生きて来ましたから、妹とはそれなりのつきあいが出来ています。私には、すぎた妹です。寅さんの妹「サクラ」のような存在です。 あの日も大変暑い一日でした。今のようにエアコンもなく、扇風機が熱い風をかき回していました。幼子のわれわれは、大勢の人が来てくれて嬉しいのが先でした。父親が死んだという現実は、この日は全く分かりませんでした。父親の闘病生活も、苦しかったと思いますが、それが終わったいうことは、なんとなく実感していました。変ですねこのあたり。 そうして生きて来て、自身37歳を超えて65歳までたどり着きました。父親の倍は生きたことになりますが、加齢するにつけて、父親との会話がもっももっと欲しかったなと思います。闘病生活で苦しかったこともあり、私は叱られた記憶しかありません。笑っている父親の顔を、思い出すことがありません。 翻ってこの年になって、「じゃお前は息子との会話は出来ているのか」と問われれば、悲しいかな生きていながら人生を語るような親子の会話はありません。必要最小限度の「確認」程度の会話に終始しています。恥ずかしながらこのままの状態で、私も鬼籍に入るのでしょうが、親子のDNAは優勢も劣勢も遺伝するのですね。 父の命日には、墓参りしか出来ませんが、そこでいつもより長めの会話をして来ました。昔の彼女のことも思い出しますが、父親は私にとって父であることには間違いがないのですが、昔からの師というか友と言うか、私の独り言の話し相手でこの55年間つきあって来ました。 過去と他人は変えられないと言いますが、楽しむことは出来るようで、恐らく来年も、このようなくだらない文章を書いていることでしょう。生きている証として。 |