TVにもよく出ている磯田道史氏が、古文書を読んで書いた歴史を「小説や教科書ではわからない魅力」として紹介している。「歴史の裏側を教えます」と帯書きされているが、歴史は為政者の都合で書き換えられることは、古くからあることである。今でも財務省から、森友学園の小学校新設計画に関する文章が、改ざんされたとか。
その中で特に面白かったのは、織田信長に関する記述。「朝野雑載(ちょうやざっさい)」にある。信長は実証主義者である。本当に星占いが正しいか、生年月日が人間の運命を決めるものか確かめようとした。すなわち、配下に命じて、自分と同年同月同日同刻に生まれた者を探し出して面会しようとした。信長と同時刻に生まれた者が一人だけ見つかったが、それは極貧の者であった。
信長はこの極貧男に向かって「天下人の自分とは大違いじゃの」と馬鹿にした。ところが、極貧男は言い返した。「信長様と自分は大して違いはない」と。信長が「なぜじゃ」と、怪訝な顔をすると、貧困男は言った。「信長様は今日一日、天下人の楽しみの中に生き、私は今日一日、極貧者の苦しみの中で生きている。それだけにすぎない。これ、たった一日の違い。お互いに明日の運命は知れぬ点は同じである」。
実は、日本史上の重大問題がある。肥前名護屋のこの御殿で秀吉が淀殿を抱いていなければ、「豊臣秀頼は秀吉の子ではない」ことになる。すでに九州大学の服部英雄教授が「河原ノ者・非人・秀吉」で考察されているが、文禄二(1593)年旧暦八月三日生まれの秀頼が秀吉の子であるためには文禄元年旧暦十一月初旬前後に、秀吉と淀殿が閨(ねや)を共にしていなければならぬ。
この時期、秀吉は名護屋城にいた。これに淀殿が随行していなければ、秀頼の父は秀吉以外の誰かになる。歴史が大きく変わったのだが。興味が尽きない貴重な一冊であります。