山陰島根県の豪雨の一部を、高知県の早明浦ダムに頂けたら、島根の災害も軽減できるし、香川県下の水不足も解決するのにと複雑な気持ちで「ゲリラ豪雨」の報道を見ています。一体どうなっているのですかね。自然界は、もう取り返しの出来ないほど疲れているのでしょうか。
確かに香川県の水源の高知県早明浦ダムは、非常用発電の水源も生活水に廻すなど、非常事態にあることは否定できません。この高知県早明浦ダムから、徳島県の池田ダムを経由して香川県の西端から「香川用水」が始まります。香川用水を用いて、ここから東端の引田町まで配水システムが出来ています。
いまから5年程前に、途中の宝山池(人工池)が完成し、多少の貯水が出来るようにはなりました。しかしそれでも、フル稼働となると半月の供給が出来るかどうかの容量です。逆に言うと、毎日の使用量が多すぎるのです。香川用水の配水システムは万全ですが、肝心の源水が不足となると、配水では補えない状態です。
また本日は父親茂の51回忌です。あれからもう51年になります。私が10歳、茂は37歳でした。ここから私の死生観が始まります。残るは母親です。母に万一のことがあると、自分も妹も生きていけない。それまでの1日1日を、笑って楽しく明るく生きるということをモットーとしました。
その母が今年2月に没し、私は還暦過ぎて妹はおばあちゃんになりました。正直ここまで母親が頑張ってくれるとは思っていませんでした。今年は母親の新盆供養でお盆まで賑やかでしたが、父親の命日も、私にとっては忘れられない日です。
あの日(葬儀)は、とても暑い日でした。体感では、今年の猛暑よりもっともっと暑かった。今のようにエアコンはありません。もっともエアコンだけの問題ではなかったとも思います。大勢の人が遠くからも来てくれていて、悲しみより、楽しみが一杯のように思っていました。愚かな自分です。
父親が他界した時、私は10歳ですからそう多くの記憶はありませんが、なぜか一つ鮮明なものがあります。めったにないことですが、妹の惠三子と4人で近くの映画館「香川座」へ行くことになりました。最初で最後の出来事でした。
先に行けと父がいうもので、3人で香川座へ行って、映画を見ました。映画の中身は全く覚えていませんが、売店で売っている「田楽」が楽しみで、甘味噌だれのこんにゃくが私の大好物でした。これを食べて、私はご機嫌でした。
父親の姿は、最後までありませんでした。急ぎ帰ってみると、作業をしていました。確かにそれは、良い作業だと幼い私にも理解が出来ました。父も麺職人でした。うどんを茹でる釜へ、供給する燃料(木くず)を貯めておくスペースづくりでした。
これまでは木工所から持ち帰った、子供の等身大ほどのドンゴロス(麻袋)から焚き口に木っ端を入れていました。讃岐弁では、「くえる」と言います。その燃料「木くず(木っ端)」のドンゴロス3本が入る木の枠を作っていました。
今の私は、作業と映画のどちらを選択するかと考えることもありますが、勿論私も父親と一緒の「作業」と言うだろうと思います。しかしその時は、何で家族4人の輪の中に父親がいないのか、全く理解できず、私は父親をなじっていました。
とにかくよく働く両親でした。今日はお盆からこちら久しぶりに墓参をして、ただ手を合わせるのみでした。綺麗に掃除がされた花筒には、溢れんばかりの雨水が貯まっていました。思わず笑ってしまいました。この二日間雨が降って、本当の慈雨になりました。それでも早明浦ダムは、量にしたら30ミリです。