母チサ子の弟、紀元(のりもと)おじさんが73歳で他界したと連絡があって、九州に来ています。はじめて九州新幹線「さくら」に乗りました。岡山から一気に熊本まで、2時間でつなぎます。実に早くなりました。母が私や妹の手をとって実家に帰っていた頃は、夜船に乗って、阿蘇山を越えて、次の日の昼頃熊本に着いていました。
紀元さんは、私の父親が急逝し、姉が困っていると手助けに来てくれました。私が10歳で紀元さんが22歳、そのお嫁さん恵美子(喪主)さんは18歳でした。なにかと心丈夫でした。おさな心に、父が死に母が死んだら兄妹死ぬんだなと漠然と考えていました。死という差し迫った恐怖感はありませんでしたが、その日まで一生懸命生きようと決意したところでした。
母は平井家9人姉妹の次女でしたが、私が従兄弟の最年長だったこともあり、何かにつけて「ノブヒロ、のぶひろ」と、おじさんおばさんらに可愛がられました。甘えたは、ここ熊本で醸成された?ことはありませんが、私は小学生の頃から熊本へ来ていたそうです。本人の記憶では、中学生になっています。
通夜では、住職の説教に思わず涙しました。10歳ぐらいですか、息子さんを連れてきていました。彼は鐘の担当でしたが、これが実に上手い。右手の薬指で、残響を止めます。お経も一人前に読んでいます。
住職の説教のなかで、「息子が走って帰ってきました。のりもとおじさんと約束しているから」と言うのです。またまた泣かされました。彼の姿に、あの頃の自分をかぶせていました。
私も数多くの通夜葬儀告別式に参列していますが、こんな素晴らしい説教は初めてでした。もう1つ驚いたのは、BGMがバイオリンの生演奏でした。こんなのも経験ありません。何曲か演奏していますが、「北帰港」や「兄弟船」など紀元さんの好きだった曲が選ばれています。
喪主親族の挨拶を命じられたのですが、泣くとは自覚していましたが、住職の説教で出鼻をくじかれ、我ながらガタガタのお礼の言葉でした。もともと上手くはありませんが、あの説教が胸に滲みて、言葉になりませんでした。
また供物ですが、「御目覚」と書いた線香らしき物や、「金箔入り大吟醸酒」がありました。確かに昔は同行(町内会)が、近所の焼き場で寝ずの番をして遺体を荼毘に付していました。その頃の気付けの風習でしょうか。冠婚葬祭に地方の風習がまだ少し残っていますが、ここ九州はまだまだ面白いのが数多くあるようです。