第27回高松冬のまつりの一環として、夢を叶えるリーダーの役割とは何だろうと考える勉強会が、高松市役所13階多目的大会議室で開催されています。日曜日でも、市役所は開けるのですね。そう言えば結婚届とか出産届、はたまた死亡届などの受理は日曜祝日もされますよね。
香川大学の八木先生の指導の下、高松冬のまつりの一環として開催されていることから、まつり主管3者(高松市・KSB瀬戸内海放送・髙松栗林ライオンズクラブ)から人が派遣されています。私も佐久間会長からのお声がけで、こうして来ています。中身は何も知りません。
一般市民へも呼びかけたようで、大学生は講師との関係でしょうが、全くの一般市民も大勢来ています。総勢80名くらいになっています。私のテーブルにも、高校の女先生がいました。彼女は大学を卒業後6年間高校の講師をして、年度末毎に教員採用試験を受け続け、3年前に正式採用になったという強者です。
この合格がこれまでの人生で、自分が一番輝いた時であったと振り返っていました。教科を聞くと、「数学」というので、それなら予備校の方が待遇も給料も良いのではないかと、テーブルの連中から言われていました。内海敦之(のぶゆき)君は市職ですが、愚息と同級生で名前も「誠之と敦之のノブユキつながり」だそうです。
最近はアパマンの世話人会へ行っても、息子の方が有名です。「××のお父さん」と言われる日がもう来ているのですね。話しは脱線しましたが、「夢」となるとその登場人物は「若者」と一括りに言われますが、私は夢は年齢に関係ないと思います。むしろ60歳還暦過ぎから、本当の夢の実現が始まると思います。
これは私の場合ですから、すべてがそうだとは言い切れませんが、自分の二十歳の頃の夢は、まず中学生の頃にパイロットになりたいという夢が、資力低下で断念せざるを得なくなりました。少し勉強をはじめたら、視力ががたっと落ちました。裸眼で1.2の要求に対して、0.7まで下がりました。
この夢のあとは、夢はありませんでした。大学を卒業したらふるさとへ帰って麺職人になることを決めていましたから、就職も人生の一大イベントにはなりませんでした。麺職人になることは、寡婦の母親との約束でしたから、夢など縁がありませんでした。
親孝行だと言われて今の「不動産仲介業」へ足を踏み入れたのですが、いつも言うように農家の婦人から「口入師」と言われて、「蔑まれ馬鹿にされた業界」と愕然とした記憶が、その後の私の夢を作ってくれました。私の夢は、「業界の地位の向上に貢献する」というものです。
夢を人に言ったら夢じゃなくなり、実現しないと言われますが、私はそんなの関係ないと全く唯我独尊です。若い頃漠然と持っていた夢と、今抱いている夢と比べたら、やはり今の方が強いです。稲盛和夫塾長も強く思えと言います。願望になり、寝ても覚めても言うようになると、達成まで辿り着くように思います。
それと還暦を過ぎると、もうあと20年です。最後がはっきりしている方が、やろうとする気持ちも現実味を帯びると思います。夢というと若者の特権のように言われますが、どっこいおっさんも夢追い人です。身体が続く限り、私はやり続けます。