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東日本大震災から4年余JR仙石線全面再開と原発廃炉
東日本大震災の影響で不通が続いていた宮城県のJR仙石(せんせき)線(仙台−石巻間49㎞)は30日、高城町(たかぎまち)−陸前小野間(10.5㎞)で運行を再開し、全線が復旧しました。

震災で大きな被害があった石巻市や東松島市の中心部が、仙台と4年2カ月ぶりに鉄道で結ばれることになり、沿線は祝賀ムードに包まれていました。私もこの仙石線には、思い入れが随分あります。東京から仙台駅に降り立ち、このローカル線に乗ると東北へ来たなと実感する私でした。

津波で線路が流失した野蒜(のびる)、東名(とうな)の両駅を含む約3.5㎞は従来より約500m内陸側に線路が移設され、海抜約20mの高台に新たな駅舎が建設されました。このあたりの被害が、一番大きかったのです。線路地盤が流され、線路がむなしく宙に浮いていました。

ところでこの仙石線に私がはじめて乗ったのは、今から40年余前、情緒漂うローカル通勤通学路線でした。東北地方のローカル列車の常識でしたが、ドアーの開扉が手動なのです。自動で閉まっても、いつまで待ってもドアーは開かないのです。冷気を車内に入れない、寒い地方の工夫です。

面白いことに昨今では、四国などの暖かいところの路線でも、この方式が使われています。特急列車などではあり得ない光景ですが、ローカル普通列車は、本当に庶民の足です。大都会を除く全国各地でマイカー利用が主流ですが、運転ができなくなると、私も公共交通網しか移動手段がなくなる訳です。

何とか今ある公共交通網を使って、楽しく老後暮らしをしてみたいと願っていますが、ごく近くにあるコトデン琴平線は週に3回程度は利用します。欲をいうと、もう少し頻繁に走ってくれたら嬉しいのですが。これが更に複線化になると、一層便利になります。

田舎のことで笑われますが、私はこれにJR線やバス路線を重ねて使う術を試しています。老後は今より時間の余裕がありますから、そんなに慌てたスケジュールでなくてものんびりでやっていけます。コトデンのホームページに、検索サイトがあります。是非お試しあれ。

話しを仙石線に戻しますが、仙台駅で弁当(その頃は牛タン弁当はなかった?)と飲み物を買い込んで、この1時間は私にすればつかの間の旅の時間です。この間に弁当を食べることを、当たり前にしていました。ところがいつの頃からかこの仙石線が、山手線タイプの対面型車両になっていました。

流石に図々しい私も、これには耐えきれず、石巻の宮本家まで弁当を持ち込んだことがありました。宮本家の皆様に大笑いを獲ったことを、今でも仙石線物語として覚えています。いよいよ震災復興の、第2ステージが始まったように思います。

一方鹿児島県の川内原発に続き、愛媛県の伊方原発の再稼働も年内中かと言われています。今ここで軽々に原発全廃を唱えると、日本経済が立ちゆかなくなってしまいます。経済と命とどちらが唯物かという議論もありますが、父が一番母が二番と、言い切れないところがあります。

私も直ちに原発全廃では、廃炉のための資金も枯渇し、エネルギー効率からも価格の上昇を生むと考えます。緩やかな収束、50年掛けて構築したものは、また同じくらいの時間を掛けて解体するという考えでないと、国も人心も保ちません。

以下は、仙石線に関する毎日新聞からの記事です。長くなるとホームページから記事が消えそうなので、お借りして掲載しておきます。

「キャー」。悲鳴が響き、横揺れが続く。2011年3月11日午後2時46分。石巻行き下り列車(4両編成)は野蒜駅から約600メートル進んだ小高い丘で緊急停止した。運転士は輸送指令室の指示で、指定避難場所だった野蒜小学校に向かうため乗客約100人を車外に誘導し始めた。

 東京の得意先回りを終え、帰社途中だった石巻市の水産加工会社「ヤマサコウショウ」部長の阿部義美さん(66)は周囲を見て運転士に伝えた。「移動中に津波が来るかもしれない。高台のここが一番安全だ」。阿部さんは元消防団員で土地勘があった。運転士は再度指令室の指示を仰ごうとしたが無線がつながらない。意見を受け入れて車両に残ることを決めた。

 阿部さんは最後尾の4両目で海を見ていた。ゴーッという地鳴りが響くと、約50メートル前まで黒い津波が押し寄せ民家が流されていった。「ようし大丈夫だ、助かったぞ」。乗客らが身を寄せ合っていた3両目に戻って伝えると、歓声が沸いた。

夕方になると、阿部さんは紙袋から土産物を取り出して乗客に回した。「私も弁当があるから」「こっちにもある」。乗客たちは少しずつはしをつけ、隣に回した。

 乗客は翌朝、3キロ離れた市民センターに避難した。「運が良かった。みんなも冷静に行動できた」。阿部さんは見ず知らずの人同士が力を合わせた一夜を、そう振り返る。「仙石線に乗って、復旧した石巻の姿を一人でも多くの人に見に来てほしい」と願う。



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| 社長日記 | 08:13 AM | comments (0) | trackback (0) |
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