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第93回東京箱根間往復大学駅伝の往路レース
正月の風物詩としてすっかり定着し、人気が右肩上がりの箱根駅伝です。しかし全国大会ではなくて関東学連加盟大学のうち、前年大会でシード権を獲得した10校と、予選会を通過した10校、および関東学生連合を加えた合計21チームだけが出場する、言わば関東圏ローカル駅伝に過ぎないのですが。

東京・読売新聞社前~箱根・芦ノ湖間を往路5区間(107.5Km)、復路5区間(109.6Km)の合計10区間(217.1Km)で競う、学生長距離界最大の駅伝競走です。私の関心事は、青山学院大学の3連覇なるか明治大学のシード権獲得なるかです。また裏関心は、92回連続出場して今回出場のない名門中央大学の今後です。

また親子鷹対決区間として山登りの5区、小田原~芦ノ湖間20.8㎞を大東文化大学の奈良凌介選手と山梨学園大学の上田健太選手が、それぞれ父親が走ったコースで初の挑戦をします。

男の子は、父親越えが一番の目標です。幼い頃から「箱根を走る」という具体的な目標があるのは、ある意味幸せですが、やはり次の目標も必要です。社会人ランナーとして、箱根駅伝を世界を目指すステップにしてほしいものです。

公式ホームページによれば、箱根駅伝が誕生したのは、1920年(大正9)、今から90年も前のことである。創設の原動力になったのは、マラソンの父として知られる金栗四三らの「世界に通用するランナーを育成したい」との思いだった。

金栗は、東京高師の学生時代に日本が初参加した1912年(明治45)のストックホルム五輪にマラソン代表として出場したが、途中棄権に終わり、失意のまま帰国した。

そうした中で、1917年(大正6)に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。
読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーだ。東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となった。

「東海道駅伝」の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたというのが、創設のいきさつである。第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われたのは、こうした事情によるものだ。

箱根駅伝の創設は、当時のスポーツ界のパイオニアたちの果てしなきエネルギーが実を結んだものでもあった。当時は、多くの犠牲者を出した第1次世界大戦が終わったばかり。工場地帯が次第に西に延びて、大動脈の東海道も道幅が広がった。

スポーツ界にも、こうした時代の空気を反映して次第に「やってやろうじゃないか」という挑戦心と気概が満ち溢れつつあった。このような歴史的情熱が、関東圏ローカル駅伝に過ぎない箱根駅伝の人気の源だと私は思います。

数々の名選手を輩出した箱根駅伝から、しかし、五輪金メダリストはまだ出ていない。2区での激走も、ケニア選手のごぼう抜きが印象的だった。何とかこの人気を、世界力にまで引揚げてもらいたいが、そのためにはどうするか。

そんなことを考えながら、青山学院大学の往路優勝を眺めています。順位は1位青学大、2位早大、3位順大、4位東洋大、5位駒大、6位神奈川大、7位中央学院大、8位上武大、9位創価大、10位日大、11位帝京大、12位法大、13位日体大、14位拓大、15位東海大、16位山梨学院大、17位明治大、18位大東大、19位国学院大、20位国士舘大、関東学生連合。


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| 社長日記 | 08:35 AM | comments (1) | trackback (0) |
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