高松栗林ライオンズクラブ結成60年記念事業実行委員長を仰せつかり、メンバー全員の一致団結で、どうにか予定イベントを終えることが出来ました。このライオンズクラブ停滞期に、当初予定の190名の登録を得て、『さすが栗林』と言われる盛り上がりになりました。委員長の立場を活かし、『60年間の歴史総括DVD』や『60年間入会者一覧』を作成し、60年間を世の中の動きにクラブの活動を埋め込んで、歴史を俯瞰してみたりしました。
特に人の動きですが、60年間で総勢473名の入会者がいて、私が勝手に会員番号をつけたのですが、23永見真一氏が気になった一人でした。1962(昭和37)年10月、チャーターメンバー44名の一人として入会された。㈱桜製作所代表取締役、38歳の入会です。結成から9年後、大川和会長の幹事として三役入りをしています。
その後結成30周年を迎えるにあたりで会長就任を要請され、心臓病を持っていたことから固辞し、そのまま退会したようです。今日ご子息と話ししていて、このあたりの経緯を納得しました。常に『ニコニコ顔』、しかし芯は頑固だったのでしょう。細身は、親子そっくりです。入会された頃の㈱桜製作所は、花園町にありました。今は牟礼町の森の中にあります。
ジョージナカシマは日系二世の建築家、アメリカで生まれワシントン州シアトルで育ち、大学で森林学と建築学を学ぶ。建築家として経験を積むが、当時の米国現代建築を見て失望。全てを自身で統合できる家具づくりの道を選ぶ。1964(昭和39)年、彫刻家流政之の薦めで初めて高松へ。地元の職人達を中心とする『讃岐民具連』を知り、自ら参加。桜製作所の協力を得て、1968年から計8回の『ジョージナカシマ展』を東京で開催した。1990(平成2)年に亡くなった後も、ナカシマデザインの家具は、米国ニューホープの工房と四国高松の桜製作所の2カ所で作り続けられている。
『ジョージナカシマ』の作品は、特別名勝栗林公園の商工奨励館にも置かれている。またこの記念館には、佐藤忠義相談役の使っていたテーブルも置かれていた。相続人から『お預かり』しているようです。