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日本経済新聞風見鶏5/14徳川家康と習近平の類似と相違
『習氏と家康の分かれ道』と題した、編集委員・高橋哲史氏の署名記事が面白い。NHK大河ドラマで『どうする家康』、今週は『三方ヶ原合戦』で武田信玄に敗れた家康が、浜松城に籠城する場面だった。家康は29歳から17年間ここですごし、天下人への足掛かりを掴んだ。この家康が、中国で最も有名な日本人の一人だという。そして、習近平(シー・ジンピン)国家主席の生い立ちと酷似していると言う。

小国のあるじにすぎなかった家康が戦乱の時代を生き抜き、ついには天下を取る。何度も挫けながら耐え忍ぶその生き様は、立身出世の物語を好む中国人の心を捉えて放さない。家康は、岡崎城主の嫡男として生まれた。習氏は、元副首相の習仲勳氏を父に持つ。ともに名門の出で、農村からはい上がった豊臣秀吉や毛沢東とは明らかに違う。

若い頃、苦労をしたのも同じだ。家康は6歳で人質に出され、異郷の地で育った。習氏は文化大革命のさなか、15歳で黄土高原の谷間にある小さな村に送り込まれ、およそ7年間を洞穴式の住居で過ごした。家康は天下人になったあとも、自らの支配を脅かす恐れのある勢力は徹底的に叩く。そうした姿勢は2022年の中国共産党大会で、当時の李克強(リー・クォーチャン)首相や胡春華(フー・チュンホア)副首相らを指導部から締め出した習氏にも通じる。

しかし、「家康と習氏には決定的な違いがある」と言う人もいる。家康が基礎を築いた徳川家の統治は、独立した藩を幕府が束ねる封建制(幕藩体制)のうえに成り立っていた。一方、習氏はあらゆる権限を自らに集めようとしている。家臣の進言をよく聞き、細事にこだわらなかった家康。党の指導を絶対と考え、社会の隅々にまで自身の意向を行き渡らせようとする習氏。日本総合研究所の呉軍華上席理事の目には、ふたりが異なるタイプの指導者に映る。

国際日本文化研究センターの磯田道史教授は、著書で家康を「織田信長のように『力の原理主義者』にはならなかった」と評す。引き締めすぎず、緩めすぎず。力に頼るばかりでなかった家康流の統治がしみ渡っていたからこそ、江戸幕府は265年の長きにわたって続いたのだろう。岸田氏と習氏のどちらが家康に近いか、世界が注視するところだ。

週末には『G7広島サミット』が、岸田文雄首相の地元で開催される。広島は、岸田さんの故郷だが、日本人みんなの『被曝の象徴』の場でもあります。広島開催は岸田さんの発案ではないようだが、良い機会だと私は思います。


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| 社長日記 | 08:05 AM | comments (0) | trackback (0) |
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