2023,05,18, Thursday
地元高松市松島町に生まれ、なぜかしら町内の高松商を通過して、高松一高から1952(昭和27)年私が生まれた年ですが、西鉄入りして新人王を獲得したと言う、まさに郷土の英雄です。一高時代、甲子園に春1度、夏2回出場し夏は2大会とも4強入り。豪打と俊足でならし、『怪童』と呼ばれた怪人であったのですが、11日都内の自宅で心不全のため死去したことが18日公表されました。
プロ野球西鉄(現西武)の強打者として、三原脩(巨人・西鉄・大洋)監督の下、稲尾和久投手豊田泰光選手らと西鉄黄金期を築き、56年から3年連続日本一を支えた。無類の飛距離を誇った本塁打で人気を集め、53年は36本塁打、86打点の2冠に輝いた。当該タイトルを20歳で獲得したのは2リーグ制となった50年以降の最年少記録で、53年達成トリプル3(打率3割・30本塁打・30盗塁)も史上最年少記録。 中西太氏の功績に対しては他の報道に委ねるとして、晩年は高松商の甲子園応援にも駆けつけて、熱心に応援して下さった。99年には県人として8人目の野球殿堂入り、2000年には高松市初の市民栄誉賞を受賞している。中西太さんが、髙松市立高松第一高校出身だからとバカなことは言いません。最適な人でありました。 中西太さん伝説ですが、中西さんは漁師の家に生まれ幼少の頃、伝馬船を漕いで、足腰が強くなったと聞きました。上背はプロ野球選手の中でも小さな方で、親交のあった高松商の山口富士雄さん(昭和35年選抜甲子園大会でサヨナラホームラン打)とも、高松で親交を深めていました。その店の一つパパラギには、中西太さんのサイン入りバットが今も飾られています。 野球人として90歳は、比較的長寿です。健康的な生活をしていたとも思えませんが、高松の英雄が逝去されたのは悲しいことです。高松商出身の浅野翔吾選手には、熱い声援を送ってくれていました。ご冥福をお祈りします。 |