先の小欄で紹介しましたが、陸自東千歳駐屯地資料館の『日本の終戦はいつですか』という展示は興味深いモノでした。帰宅して資料を読み返して、再度ここに書き残しておきたいと考えました。太平洋戦争の末期、地上戦が行われた日本領土といえば沖縄を思い浮かべますが、千島列島最北東端の島『占守島(しゅむしゅとう)』でも激戦が行われていたのです。1945(昭和20)年8月18日未明、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して突如ソ連軍が対日参戦してきました。
このあたりの状況をフリー百科事典ウイキペディアにみると、昭和20年(1945年)8月8日夜に、ソ連のモトロフ外務人民委員が、佐藤尚武駐ソ連大使を招致し、そこで佐藤大使にソビエト政府の対日参戦を宣告する。そして、翌日の8月9日未明にソ連軍が満ソ国境を越えて攻撃を開始したとあります。最終的には日本の降伏を招いたが、(15日を終戦とするなら)終戦後もソ連赤軍は侵攻を続け、現在の北方領土を占領した。
また、その過程でソ連軍による日本人の捕虜や民間人に対する苛烈な強姦や虐殺が行われ、現在でも日露両国間で禍根を残している。ソ連は満洲・樺太・千島侵攻のために総兵力157万人、戦車・自走砲5,556輌、航空機3,446機を準備し、8日夜に宣戦布告、9日未明に満洲への侵攻作戦を、11日に樺太への侵攻作戦を開始し、第二次世界大戦における日本の降伏を決定付けた。
北海道を守備していた第五方面軍(樋口季一郎中将)、千島列島方面を守備していた第九十一師団(堤不夾貴(つつみふさき)中将)のうち占守島には、第七十三旅団(杉野巌小将)と、戦車第十一連隊(池田末男大佐)の約8,500名がいた。速やかに戦闘配備につき、ソ連軍と戦った。そして、北海道上陸(留萌―釧路以北を占領)をもくろむソ連軍を8月23日まで拘束し、北海道への上陸を阻止した。
戦闘は日本軍の激しい抵抗で優位に推移するモノの、軍命により21日に日本軍が降伏し停戦が成立。23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後、大勢が法的根拠なく拉致され、シベリアへ抑留されたのです。今もなお、ロシアに実効支配されており、その存在すら日本の学校では教えられることはありません。祖国を守るべく戦い、ソ連軍を撃退したこの戦いを後世に語り継いでいきたいと思います。
この後に、第五方面軍司令官・陸軍中将樋口季一郎が詳しく紹介されています。ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受けた樋口は、指令を出します。「断固、反撃に転じソ連軍を撃滅すべし」と。第九十一師団長・陸軍中将堤不夾貴(つつみふさき)の「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」、戦車第十一連隊長・陸軍少将・池田末男と続きます。
ソ連(ロシア)の今を語るつもりはありませんが、昭和20年8月15日前後のロシアの行動は、このようなモノでありました。『実効支配』は、ロシアの常套手段で、お家芸かも知れません。先祖伝来謂わば民族のDNAのようなモノかも。『実効支配=正義正論』が、ロシア人の血かもしれない。2000年の戦いの歴史では、言う前にやるのが鉄則かも知れません。