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雲仙普賢岳の大火砕流から20年が
早いもので、普賢岳の噴火からもう20年が経過しました。当時、高松栗林ライオンズクラブの幹事を拝命していて、12月に開催される「高松冬のまつり」に、被災して落ち込んでいるだろう子供らをまつりに招待するという計画のために9月、島原市を訪れたのを昨日のように覚えています。

復興後も何度か、消防団員や報道関係者、学者ら43人を飲み込んだ大火砕流の爪痕を見に行きましたが、改めて20年と聞くと、被災者の皆様に改めて手を合わせ、ご冥福をお祈りするところであります。

あの時も島原市役所には、全国から沢山の義援金が集まっていました。直接髭の鐘ヶ江管一市長へ義援金を届ける人も多く、ごった返していたことをよく覚えています。木造の市庁舎は、床も木製で、ぼこぼこしていました。廊下には長い椅子の列が続いていました。

そんな中で、義援金も持たず、子供達を高松へ招くという無謀な計画に、当時の髭の市長もビックリされたことでしょう。市長も、「島原ライオンズクラブ」のメンバーでした。幹事の先導で、ほとんど待たずに面談が許されました。ライオンズクラブのメンバーシップを、強く感じました。

追悼式で横田修一郎市長が、「災害を風化させることなく伝えることが責務。東日本大震災の被災者に、必ず復興できるとメッセージを発信したい」と述べたと聞きます。この経験が、霧島連山の新燃岳(しんもえだけ)の地元対策にも活かされているようです。

災害を乗り越えて、よりよい島原を、そして当時の行き過ぎた報道のあり方など、反省すべきところは国民みんなが反省して、次に活かしたいと祈念しています。


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| 社長日記 | 11:55 AM | comments (0) | trackback (0) |

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