1988(昭和63)年4月10日、瀬戸大橋が開通した。あれから明日で丁度30年。同年1ヶ月前の3月13日には、北海道と本州を結ぶ青函トンネルが開通していて、北海道・本州・四国が一つに結ばれた。既に九州が繋がっていることから、日本が一つになった日が30年前の明日と言って良いだろう。
「塩飽(しわく)の島々をつないで橋を架ければ、天候に左右されず、海を渡れる」と提唱したのが、今の三豊市出身の県議・大久保諶之丞(おおくぼじんのじょう)だといわれている。明治22(1889)年だから、今から129年前、「いちはやく(1889)発布、大日本帝国憲法」が世に出た年と、いみじくも同じころ。
そして架橋の気運が決定的となったのは、昭和30(1955)年5月11日の国鉄連絡船「紫雲丸」が濃霧の中、女木島沖で別の船と衝突沈没し、修学旅行生100名を含む168名が犠牲になった水難事故から。1955年と言えば私が産まれてよちよち歩きのころだが、右派と左派社会党が統一し、日本民主党と自由党が保守合同して自由民主党が誕生した、世に言う「55年体制」が出来た年でもある。
3ルートの案が浮かんでは消え、紆余曲折を経て、瀬戸大橋は道路・鉄道併用橋として昭和53(1978)年10月に着工し、9年半の歳月と1兆1200億円の巨費をかけて開通した。平成7(1995)年1月の阪神淡路大震災でも、びくともしなかった瀬戸大橋であります。完成までの間、何度か船で工事現場を見に行った記憶があります。下から橋脚の延伸を、毎年のように見ました。夏の遊覧船は、県中小企業家同友会の発案でしたが、1978年は長男賢士が1月に誕生し、彼はもう思惑の年を迎える。
架橋記念博覧会には、5ヶ月で350万人が来場。その後暫くは、瀬戸大橋ブームが続いた。途中の与島(よしま)には、大型駐車場と飲食展望お土産の施設が誕生し、またバスで来た人が「屋島健康ランド」で朝食というスタイルも定着した。そんなブームも、通行料金(片道6300円)が影響して、初年度から一日平均通行台数は1万823台と、計画交通量2万4900台の半分にも届かなかった。
男の子2人(長男次男)は瀬戸大橋が見たくて、「岡山へラーメン食べに行こう」と言うから、「息子よ高松でステーキ食べよう」と言ったのを今でも覚えている。その次は、長男が台風のため岡山駅で足止めと聞いて、「けんじを迎えに行こう」とかみさんが言い出して、まだ通行止めになっていなかった上の道路を利用して岡山駅へ向かうも長男には会えず、逆に折り返しの瀬戸大橋は、下の鉄道より遅れたが、道路も通行止めになった。
結局長男は、JR(いち早く止まるマリンライナー号)が止まったので、動いていたバスを利用して先に高松へ帰っていた。私は、冷静に「行くと帰れないよ」と言ったのだが、母の愛は私の忠告など聞くわけがなかった。そんな思い出が、わが家の瀬戸大橋物語です。そんな長男が、はや40歳のおっさんです。
そんな割高の通行料金でしたが、10年前ころに一時片道1000円という特別料金体制を敷いたこともありましたが、平成26年から現行の全国共通料金制度が導入されて、ETC搭載車で平日2270円、休日1950円落ち着いています。そのため2015年から、3年連続で過去最高を更新している。
次のステップは、なんと言っても「四国新幹線」。瀬戸大橋は、すでに新幹線仕様に作られていて、四国側のJR宇多津駅は、駅舎の用地も準備が出来ています。政治的配慮によって3本の瀬戸大橋が架設されましたが、鉄道共用橋は、ここだけです。一日も早い、四国新幹線開通、次の50年の節目までには、日の目がみたいものです。