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防潮堤15メートルの高さが村を救う
25日、45日ぶりに東北新幹線の東京仙台間がつながりました。3度ほど停電で列車が止まったようですが、東京と仙台がつながった意義は大きいものがあります。私はこの間を高速バスで13時間かけて往復しました。僅か1往復ですが、たんびたんび往復する人は胸をなで下ろしていることでしょう。

私が何となく目にした東日本大震災に関連する記事で、4月4日読売新聞ですが、どうしても捨てきれず今まで残していた記事があります。私を、被災地に誘った記事でもあります。

3月11日に津波で壊滅的な被害を受けた三陸海岸の中で、記事にある岩手県下閉伊郡譜代村(ふだい)では、住人に死者は出ていない。高さ15.5メートル、全長205メートルの防潮堤と水門が村を守り抜いたという記事です。

防潮堤は1967(昭和42)年に、岩手県が5,800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。「万里の長城」と呼ばれた、宮古市田老地区の10メートルの防潮堤を大きく上回る計画に、当初批判を浴びたそうです。

村は1896年の明治三陸津波と、1933年昭和三陸津波で多数の犠牲者を出しました。当時の和村幸得村長(故人)が、15メートル以上の高さを主張したのです。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだと言います。

今回の津波で宮古市田老地区は、10メートルの防潮堤が波に飲み込まれ、数百人の死者・不明者を出しました。岩手県全体での死者・行方不明者は8,000人を超えました。(4月4日現在)

これを見ても、リーダーの舵取りの重大さが、ひしひしと伝わってきます。次からは、盛和塾生子守康範さんが私にも送って下さったメールから、一部転載をさせて頂いております。「稲盛和夫塾長」が4月19日に、KBS京都のラジオ番組で話された録音内容を子守康範さんがまとめたものです。

原子力発電所の事故については、政府も東京電力もすべてが平穏で巨大化して緊張感の無い中で仕事をしてきたから、突然ああいうことが起こると右往左往して事の処理ができないでいた。

普段から緊張感をもって、謙虚さをもって「これではいかん。これではいかん」と反省しながら日々送っていれば、こういう事態になっても対処する方法はあっただろうと思う。周章狼狽してしまい打つ手が後手後手になってしまった。

謙虚さを忘れ、傲慢になり、段々と組織も人間も堕落をして、緊張感の無い状態が長く続いたので、ああいう始末になったのではないかと思う。

盛和塾では、5月の連休明けから「シカゴ塾」の開塾式が、アメリカ合衆国イリノイ州で行われます。私は行けませんが、「稲盛和夫塾長」が世界の塾生へ向けて話す言葉に大変興味があります。恐らく復興についてもコメントされると思います。

6月は、福島塾の開塾式が郡山市で予定されています。本部からは、年間計画の通り実施と連絡が来ています。


| http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=1555 |
| 社長日記 | 06:29 AM | comments (0) | trackback (0) |

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