3回連続で転載しています、湯川正氏からのカオハガン島報告記です。何もない島で湯川正さんは考えています。
皆さん
カオハガン報告の3回目です。
それでは、私のこの島への関心の発端からお話します。
≪何もなくて豊かな島≫
私が「何もなくて豊かな島」という新潮文庫を初めて手にしたのが、平成10年1998年ですから、私が46歳。仕事そのものは多忙を極め、自宅には週に1~2日帰宅するだけで後は出張といった生活の時期でした。
青い海に浮かぶカオハガン島の表紙写真を眺め、「本当にこんなところを買っちゃった人いるんだ、こんな島が買えるんだ」といった焦がれ、羨望の気持ちが強く動いた事を覚えています。
特に40歳半ばの働き盛りで、大学生と高校生の2人を持つ身からすれば、それは夢物語の中の事のようで、少しの現実感も感じなかったというのが本音です。
この本は今でも新潮文庫で購入できますから、ご興味があれば是非ご一読をお勧めします。
2011年は誰にとっても3月11日という日を忘れることが出来ません。
私の大学時代の石巻在住の親しい友人も、あの震災、特に津波の為、彼の経営していた水産加工工場を流され、彼自身も命からがらの生還を果たしました。
しかし、当時の石巻の状況について誰も知る由もなく、取りあえず我々に出来る最善の方法として、救援物資の送り出し程度しか思い浮かばず、東京在住の同級生に声をかけ生活必需品を送るように呼びかけました。
この中で、やはり学生時代の仲間である大和君と凡そ40年ぶりに再会を果たす機会がありました。
その後、彼と暮れの11月に会い、親しく再会を祝した際に、思いがけず“カオハガン島”の事が話題に上りました。
彼は、恵比寿にある国際特許事務所に勤務していますが、中国事務所の開設を控え
責任者としての忙しい日々を送っています。
そんな彼の口から「セブ島の沖にカオハガンという島があってね。自分は行き詰まるとそこに行くんだけどね。何もない島でね。でも・・・」
旧友の口から出た、かすかに記憶にある名前の島とは、ひょっとして、以前に読んだことのあるあの島の事だろうかと思い、幾つか質問を重ねるとどうやら間違いないようだった。
「来年の夏辺りに一緒に行くかい」という彼の誘いに、何の迷いもなく「行くよ」と即答していました。
そんなことから、今回のカオハガン行きの先達となった大和君とは上海から向かおうかという彼となんとか成田で落ち合い現地へ赴いたといった次第です。
ただ、面白いというか、大和君に限らずすべての滞在者がそうなのですが、一緒に何かするという事はなく、あくまで、3食を一緒する食事以外はお互いの時間を保ちあえた事は実によかったと思っています。
この島に憧れというようなものがあった事は既に述べさせて貰いましたが、今回実際に行って見ようという決断をした事については幾つかの理由があります。
まずは素直にそんなおとぎ話のような島に対する好奇心。
そして、60歳という年齢を迎えて、伊達正宗の言葉「残躯楽しまざるべけんや」という言葉の通り、そろそろ楽しむといった事に、自分の思いを傾けても良いのではないかと思っていた事にあります。
この事を親しい人たちに相談すると、まだお若いのに。という言葉が返ってくるのですが、一定の引退という事も実はそれなりに準備と覚悟と知恵がいることだと思っています。
やはり会社生活をした人間は、その習い性を中々捨てきれませんし、無理やり捨て
させられた時の喪失感と、そこから見事に復活してくる人を見ることは稀です。
「老子」とう中国の古典がありますが、これを詩人の加島祥造さんが大胆な意訳をした「タオ」と言う判りやすい本があります。この中に
「弓を一杯に引き絞ったら、後は放つばかりだ。カップに酒をいっぱいつだら、それはこぼれる時金や宝石をやたら貯めこむと、税金か馬鹿息子で消えてなくなる
そんな富や名誉を持って威張ってみても、その瞬間には落ち込むせとぎわに
たっているのさ。
自分のやるべきことが終わったら、さっさとリアイアするのがいいんだ。
それがタオの自然の道なのさ」
ですから、私は数年前から“かっこいいジジィ”になってやろうと密かに考えておりました。
その為には、
・自分だけの時間尺を持つ
・何でも欲しがらない
・体の回復・管理をおろそかにしない
・新しい勉強を始める
が必要だと思っていました。
更に今回のカオハガン行きを即答した背景には、こんな私の思いがあります。
余分なものは何もない生活とは。
人と比べる必要もない無い生活とモラルとは。
必要以上のものを取らない自給自足の生活。
拘束されない自然の時間の中で満ち足りてその日を暮らすということ。
こうしたキーワードの中で、これから生きて行く上で必要なものとは何か、
学ぶ事が沢山あるように思えました。
さて、カオハガンですが、ポンドグ以外のスポットを紹介しましょう。
まず、村とその住民についてです。
現在の島の人口は600人ほど。世帯数は90位ではないかと思われますので、
単純に計算しても、世帯当たり6人ほどいる勘定になります。
崎山さんが最初の著書で1998年頃の島の人口を330人と紹介していました
から、およそこの14年で倍近くに増えたことになります。
6年制の小学校を作ったのが10年前で、現在100人を超える生徒がおり、3人のセブ本土から来た先生によって授業が行われています。
(就学前の子供も100人以上いると思われる)
朝の7時からの授業が開始され、ぞろぞろと大きい子、小さい子がまとまって登校する姿はたまらなく可愛らしげで、何か我々の子供の頃に年上のお兄さんお姉さんに連れられて学校に通った記憶を甦らせ、懐かしさに胸が締め付けられます。
島民はみなカトリックですので、村の中には教会があり、月に一度、これもセブ本土から神父がやってきてミサを上げます。
島民の暮らしの基本経済は「自給規則」です。
毎日朝、夕になると男や子供たちが小さな船や浅瀬の海に出て小魚や貝、雲丹を採る風景を見ることが出来ます。1時間も歩き回れば十分だそうで、それ以上取ることはしない。
野菜は彼らが島に自生している数種の木の実や葉っぱなどを調理して食している。
薪は流れ着く流木や椰子の実を薪にして火をおこす。
それ以上に彼らの家や船についても、自分たちで作って、こまめに修理している。
掃除・洗濯・料理は全て夫婦で分担し、暮らしにどうしても必要な米、砂糖、鍋や皿など島で手に入らないモノについては、少し多めに取った魚介類を、少し離れたボホール島の市場で交換で手に入れているらしい。
結婚する年齢に近い子供たち(17歳~)は、そうした自立に必要な仕事をこなす準備が出来ていて、だからパートナーが見つかればスムースに新しい家族を構成してゆく。
我々日本人との違いは暮らしに必要なお金を得るために他人の為に忙しく働かなければと言う「仕事」が無い事だろう。
これは一般的にいえば、将来に向かっての目標が感じられないという事になるのだが、島民を見ていると、何の拘束も受けずに暮らすことが、とても豊かだと思ってしまう。
滞在中何とも言えない心地よさを感じていたのが、いったい何なのか、と思い続けて
いたが、それは「善意の意思」といったモラルの高さのような気がする。
考えて見ると怒った人に、あるいは不愉快そうな顔をした人に会ったことが無かった。
「マーヨン ブンタグ(おはよう)」
「マーヨン ハポン(こんにちわ)」と声を掛ければ、小さな子供から、老人に至るまで
必ず同じように返事を返してくれる。
まるで何の不安もないような屈託のなさがそこにある。
これは必ずしなければ、又これはしてはいけないといった村での暗黙のモラルが存在しているように思える。
だから台風で家が壊れれば皆で直す、島全体が助け合って暮らしている厳然とした
モラルの歴史のようなものがあり、これが彼らの絶対的な安心感になっているように
思える。
だから、老人も病むことも、一人暮らすことも苦に成っていない。
今回はここまでにさせて貰います。
次回はもう少し、島の事と将来。崎山さんの考えていることを報告します。
湯川正