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豪商伝指宿の太平次by南原幹雄
先月末、盛和塾有志で原田悠理さんのディナーショーを観る前に、盛和塾鹿児島塾生の計らいで、鹿児島県指宿(いぶすき)温泉白水館の代表取締役下竹原啓髙氏の話を聞く機会を得ました。下竹原さんは、三菱商事に30年間奉職し、長くニューヨークに在住されたとか。

先の小欄にも書きましたが、薩摩藩のいや日本の近代化の発祥となった尚古集成館や、それに続く近代日本への柱、「製鉄所」などの施設がここ鹿児島にあります。抜け荷(密貿易)で得た巨万の富となり藩の財政を支えて、明治維新の薩長同盟の活躍に繋がるわけですが、それに貢献した一人、「浜崎太兵次物語」です。

下竹原啓髙さんの話しの中に出てきた、浜崎太兵次の活躍の半分くらいが「豪商伝」で紹介されています。下竹原さんの話しでは、もっとワクワクするような浜崎太兵次談がありました。豪商伝は、平成16年3月の角川書店からの初版です。

日本史に紹介されるほど有名な話しですが、薩摩藩は徳川幕府の鎖国政策の時代に、長く抜け荷をやっていました。それは、ある程度幕府も容認していたところがあります。しかしやり過ぎると、幕府はペナルティーを課しています。隠密も、密告も盛んな時代です。

そのため幕府は、加賀100万石に続く石高2位(77万石)の薩摩藩に44日にも及ぶ参勤交代や利根川の治水工事などを命じて、薩摩藩の蓄財を困窮させることをやっています。幕府は、薩摩藩を恐れていたのです。その裏返しに、徳川家との婚礼も薩摩は応じています。大河ドラマ「篤姫」でも、紹介されました。

ここで紹介する浜崎太平次を、下竹原啓髙さんは冗談で「浜崎あゆみ」の先祖と言っていました。今から150年前の幕末期に活躍した指宿の商人です。指宿が生んだヤマキ(濱崎家の屋号)の第八代濱崎太平次(はまさきたへいじ、1814~1863年)の面白い人生です。

その死後、時勢の激変に加え、後継者がいなかったため濱崎家は凋落。一時代盛大を極めた浜崎太平次でしたが、今日、鹿児島でも知る人ぞ知る的歴史上の人物になっています。そのために、浜崎あゆみが登場したのか。確か浜崎あゆみは、九州ではあるが博多の出身だったかな。

冗談はさておき浜崎太兵次は、「山木」の屋号で代々廻船商を営む浜崎家の8代目当主です。指宿で誕生した山木屋ですが、初代から大きな商いをしていたようです。5代目の太左衛門は海運業をさらに事業を発展させ、日本の長者 263人中の一人に入る程でした。

時の薩摩藩第9代藩主島津斉宣(なりのぶ)公が、保養のため指宿村の長井温泉を訪れると、自宅内に『御座間』という貴賓室を建てて島津氏の別荘としたほどです。

ここに、ヤマキは全盛を極めますが、第7代太平次の時になぜか家運が傾き、その長男として生まれた第8代太平次は、収穫が終わった畑で唐芋を拾って飢えを凌ぐような少年期を過ごしています。第7代目は、同業者の密告により失脚したことが後に分かります。

長じて「若山木」の名で呼ばれた浜崎太平次は、14歳頃からの敏腕ぶりが豪商伝で紹介されていますが、なかなかの評判者だったようです。この豪商伝でも後付けで紹介されている、彼の生涯を綴った伝記「浜崎太平次唐船太平記」は次のように述べています。

風雲急を告げる幕末、一葉の船に身を託して雄々しく海洋に乗り出し、貿易・運送・造船の大事業を成し遂げ、紀州の紀伊国屋文左衛門、加賀百万石の銭屋五兵衛とともに、江戸時代の『実業界の三傑』と呼ばれた薩摩の豪商が(8代目)浜崎太兵次です。

天保9年(1838年)、調所広郷(ずしょひろさと)は家老職につくと、藩の財政改革に着手しました。浜崎太兵次は調所広郷の内命をうけて、密貿易や砂糖運送などに活躍するなどして、薩摩藩の財政再建に貢献します。ヤマキの船は、薩摩藩のご用船になります。この頃から、○に十の紋がしらと、日の丸を付けています。

文政期(1818~1830年)、薩摩藩の借金は 500万両の巨額に達していて、参勤交代さえもままならぬ窮状にありました。広郷は、商人の借金を無利子で 250年の分割払いにさせ、琉球を通じて清と密貿易を行なう一方で、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制にし、商品作物の開発などを行うなどの財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまで財政を回復させました。

浜崎太兵次は、薩摩藩家老調所広郷が行った薩摩藩財政再建に身を賭して貢献し、薩摩藩の財政政策に関与、唐物商いと黒砂糖商いで藩に多大の利益をもたらし明治維新の原動力ともなった九州一の大商人なのです。いや一時は、日本一だったかも知れません。

太平次には一男一女がありましたが、男の子は24歳の時、父の死後3年目に鹿児島で病死して、太平次の弟の彌兵衛の長男が後を継ぎましたが、次第に家運が衰えて、湊の潮は減ってもヤマキの金は減らないといわれた濱崎太平次家も、明治以後の時流に乗れないまま、明治43年に断絶してしまいました。

先にも書きましたが、浜崎太兵次が稼ぎ出したその資金が、明治維新の原動力となって新しい日本の夜明けを迎えることになりますが、若干50歳のときの大阪での客死はまことに残念です。文久3年(1863年)ことです。

私はこの豪商伝のなかに、もう一つの意味を感じます。浜崎太兵次も、海外との貿易で巨万の富を稼ぎ貢献しましたが、もう一つ外国のことも伝えたことでしょう。幕府の鎖国政策に異を唱え、薩長同盟の熱い思いも、浜崎太兵次らの考えを踏襲したものじゃないかな。

西郷隆盛も登場し、加賀百万石の銭屋五兵衛(銭五と呼ばれています)が北海道利尻から運んだ昆布を、山口県当たりの港で受取、それを琉球へ運んでいます。自らも北海道へ行った浜崎太兵次ですが、銭五と知り合い、途中で交換する術を編み出します。もちろん銭五は、唐物を受取北へ運びます。

いまも沖縄県では、多くの昆布が消費されていますが、その原点は浜崎太兵次だったのかも知れません。浜崎太兵次は調所の死から15年後、斉彬公の死か5年後に客死したのですが、太平次が亡くなって5年後に明治維新が起こり、日本は近代化への道を歩み始めます。

今回の鹿児島入りで一番好感を持ったのは、指宿白水館の代表取締役下竹原啓髙氏でしたが、下竹原氏の先代も面白いので、いずれ小欄にも登場するでしょう。もちろん氏の語る浜崎太兵次も、大好きになりました。下竹原さんが近くにあるという、先端医療施設も非常に興味があります。

話が逸れますが、この先端医療施設の説明を聞いて、隣になった小林塾生(医学博士)の話を重ねて、買えってすぐにアフラックへ相談しました。池田ほけんの窓口グループの丁寧な説明で、私も妻も初年度分を振り込みました。始期は6ヶ月後だそうですが、ここの施設の世話になることもあるかも知れません。

西郷どんも、登場しました。幕末の薩摩が起こした「生麦事件」、その背景にあった思想、英国と闘い翌年には若者を英国等へ留学させる柔軟性に富む鹿児島県民性。やはり集結は稲盛和夫塾長へ辿り着くわけですが、こんな鹿児島が生むべきして生んだ偉人の一人が、稲盛和夫塾長ですね。


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| 社長日記 | 02:45 PM | comments (0) | trackback (0) |

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