アメリカ合衆国第2国歌とも言われる、「アメイジングン・グレイス」は、1772年に作詞者ジョン・ニュートン司祭の努力と情熱で世に出されたものです。奴隷廃止を28年間叫び続けたジョン・ニュートン司祭の願いがこの歌に込められています。
そのジョン・ニュートン司祭の半生を綴ったこの本は、神渡良平氏が2016(平成28)年4月に第1版第1刷を世に出したものです。この取材を平成22年からはじめて、丸5年間、ロンドンや西アフリカへ行ってジョン・ニュートン司祭の足取りを克明に追っています。
徳川吉宗の亨保の改革が行われた1725年に、ジョン・ニュートンはロンドに産まれます。7歳で母親エリザベスと死別、父親は船長で、母親と死別したジョン・ニュートンは孤独を誤魔化すために悪さばかりしていました。そこで海軍に、強制徴募され大英帝国軍艦に乗ります。
21歳で、奴隷貿易に従事するようになります。23歳の頃船が難破し、4週間漂流して九死に一生を得ることになったのです。25歳で船長になり、17歳で知り合ったメアリーと結婚をします。29歳で奴隷貿易を辞め、39歳で一念発起して英国国教会の司祭になるのです。
ジョン・ニュートンは奴隷貿易の懺悔として、一生懸命努力をして、司祭になりました。最初は小さな村の小さな教会でしたが、彼の情熱溢れる説教が評判となり、その噂がロンドンの真ん中まで聞こえて、彼はロンドンの中心部にある教会の司祭になります。
小さな村の小さな教会にいた頃、司祭47歳の時に、アメージング・グレイスの歌詞が誕生します。作曲者は不詳のようです。既にあった曲に詩をつけたようです。この時が1772年で、その3年後にアメリカ独立戦争が始まり、1776年アメリカ独立宣言とアダムスミスの「国富論」が刊行されます。
英仏の植民地争奪、アフリカ人奴隷貿易で、産業革命後の欧州の低賃金労働者として、アメリカ綿花畑の重労働に耐える強靱な体力の持ち主として奴隷の重要性がますます高まります。そんなきつい労働のあとに、奴隷たちはアメイジングン・グレイスを唱うのです。
驚くほどの神の恵み、何と甘美な響きだろう
私のような恥ずべき人間も救われた
かつては道を踏み外していたが、今は救い出された
かつては盲(めしい)だったが、今は見えるようになった
ジョン・ニュートン司祭は、確かにそうだ。私は不遇だったのではない。見捨てられていたのでもない。苦しみにあえいでいたあの時も、悲嘆に暮れていたこの時も、いつも神の御手の中にあったのだ。この詩でジョン・ニュートン司祭も救われ、それを第2国歌のように唱う黒人労働者も、同じように救われたのです。
82歳の1807年、ジョン・ニュートン司祭は死去するのですが、その少し前に彼が訴え続けていた「奴隷貿易廃止法」がイギリス議会で可決されます。ロンドに来てから、28年間の戦いでした。そして1861年アメリカ大統領にリンカーンが就任し、そのアメリカでも奴隷解放宣言がなされることとなりました。
不思議な力を持った歌です。日本ではさだまさしさんが、1960年代の終わり頃、ケニアのナクールにある長﨑大学熱帯医学研究所で医療活動に携わった柴田紘一郞医師をモデルに書いた名曲「風に立つライオン」の間奏とエンディングに「アメイジングン・グレイス」の旋律を使いました。
また若くして死んだ、本多美奈子(38歳)さんが唱っています。38歳の誕生日の前日、一時退院を許された時、ナースステーションで世話になった医師や看護師にお礼の気持ちを込めて「アメイジングン・グレイス」を歌った。
その歌唱に涙ぐんで聴き入る医師や看護師たちの姿は、後にテレビのドキュメンタリー「天使になった歌姫・本田美奈子」で放映され、多くの人の涙を誘った。私も最初に聞いたとき、この歌は何と言うことだと、驚いたことを今でもハッキリ覚えています。背景にはこんなことがあったのです。