2017,10,26, Thursday
昨日の成田空港到着が20時すぎで、高松まで帰れないと空港付近の「東武ホテル」に投宿し、朝また6時に起床して帰る準備をします。高松まで一緒に帰る予定の5人の皆さんは、もう食事をしているという。焦ることなく予定のスケジュールで、準備を進める。確かにいつもに比べたら、寝不足ではありますが、朝のルーチンワークをこなします。
日本とパブアニューギニアの時差は1時間で、これも回復に役立っています。それともう1つ、今回私は海外でおろおろするのは日常と違うからだと気が付きました。当たり前のことですが、日本から持参したものがどこにあるか、分からなくて日本へ帰ってきてから鞄の中から発見することも、私はこれまで多く経験しました。 そこで今回は、まずいつものダサいリュックを常に携行することにしました。しかしいつものスーツ姿と違い、ポケットがありません。現金カード財布、スケジュール手帳、名刺入れ、小銭入れ、それにパスポートです。これの収納場所を決めてそこへ常に入れて、少々じゃまになりますが、リュックを持ち運びます。 現地の市場などでは、リュックを前へ移動します。抜かれる心配も、現地では考えますが、相手が悪いことをすると考えるのではなく、相手にそんな気を起こさせないことが大事だと思うのです。それから現地のホテルでは、収納場所を一定に決めて行動します。とにかく時間に追われます。私のような小欄を書くとかの別作業のあるものは、その時間の確保も、節約した時間からひねり出します。 そうそう洗濯もあります。ラバウルの気温は35度、日陰はありがたいのですが、とにかく日差しが半端ではない。目の手術で、白内障も同時にしました。まぶしくて、流石にここではサングラスが必需品です。じっとしていても、汗が溢れます。オリジナルTシャツは3枚入手しましたが、1つはオイスカ四国支部長の石井淑雄氏へ、もう1枚は泉雅文高松推進協議会会長へのプレゼントです。 オイスカ日本本部柿沼さんに、明日もオリジナルTシャツ着用と聞いて、慌てて洗濯しました。それでも総体的に今回の6日の旅は、ほぼ想定内の出来事で終わりました。日本へ帰って成田空港で食事をしましたが、時間が午後9時過ぎです。ターミナルビル内の多くの飲食店が、閉店になっていました。そんな中でも、ビールと味噌ラーメンにありつきました。ホテル周辺は予想通り、何もありませんでした。 朝の成田空港ですが、東武ホテルからリムジンバスが出ています。第1ビルと第2ビル専用で、私の行きたい第3ターミナルビルへは行きません。第3ターミナルビルは、国内LCC専用ターミナルビルです。第2ビルで降りて、地下階まで下り、第3ビル行きのガイドラインに沿って15分ぐらい歩いたところに第3ビルがあります。勿論ビル間移動のバスはありますが、荷物の大きいことを考えたら歩く方が合理的です。 恥ずかしながら私は、ここからの高松便に搭乗できなかったことが一度だけあります。私は4度目の搭乗ですが、LCC利用時には必ず1時間前に空港入りすることです。JALやANAのように、検査場15分前通過で良しとしていたら、完全にアウトです。お気をつけ下さいませ。 高松へ帰ってきて、銀行とか郵便局での用事を片付けます。会社は定休日です。さぬきうどんが食べたい衝動を抑えて、おみさんの用意してくれている昼食を食べます。やはり日本食というかかみさんの料理は美味い。明日も大阪で昼食、地元のうどんは暫くお預け。流石に前期高齢者です、食べ物の執着は、これまでの渡航より失せているようです。 さて夜ですが、いとこの杉本将充が高松へ来ています。私とは15歳程度離れています。母方の平井家いとこでは、私が一番年長です。私の大学時代一度会って、それから会っていませんが、その両親にはたびたび会っていて、長男の杉本将充も違和感なく自然な会話が出来ました。命の水と生活の水を守る、「シンク・エンジニアリング㈱」の取締役です。 部下2人を連れて、途中から社長まで呼びつける有様。流石にあのおばさんの子だわ、肝っ玉が据わっている。僅か数時間のことでしたが、特に親父さんの話に終始し、31歳の岡村勝也社長相手に、「あなたに必要なのは盛和塾だ」と説教まで。彼が騙されて入塾すると、この会社は10倍100倍は間違いなく成長することだろう。 パブアニューギニア島でも農業や米作りを属望されているが、中国が10倍100倍の資金援助をする中、在駐日本大使はそれでも彼らは日本流のやり方、つまり中国のように大金を援助しても中国から建設会社等一式を連れてきて、ものは出来るが1年後の雨漏れなど修理は誰も出来ない。中国は完成したら、誰もいなくなる。 日本は根気強くやり方を教えて(教えの1割程度しか出来ない)、地元人を出来るまで鍛える。このやり方に共鳴した政府は、次の「オロ研修センター」の開設に協力し、日本政府も建物建設に資金提供をしている。 私は治水も、この国の大きな課題のように見た。勿論シンク・エンジニアリング㈱がこの国のすべての水をコントロール出来るとは考えてないが、この会社のポテンシャルは素晴らしいものがあると思う。岡村君!!騙されたと思って入塾を、そして俺の女を盗るなよ。 |
2017,10,25, Wednesday
朝の出発が、5:30分でした。首都ポートモレスビー経由で、日本へ帰ります。この3日間、実に濃い体験をしてきました。つい最近までセンター長をしていた荏原さんは、20数年前に現地結婚で、もう日本へ帰って生活することはないだろうと言います。国外に20カ所近くの研修センターをオイスカは運営していますが、その責任者は文字通り寝食を忘れて励んでいます。
海外の研修センター出身者がそれも優秀な人が、日本国内3カ所の研修センターへやって来ます。今日の30周年イベントで、日本へ来たことのあるOBOGがここラバウルハイテック研修センターへ来ていました。先輩会員によれば、日本語が上手になっているようです。ここパブアニューギニアでは、これまで焼き畑農業でした。それをオイスカが、有機農業にしました。 オイスカは、ここでも必要とされています。日本へ帰って、この3日間の貴重な体験を語り部として伝えていきます。昨日のオイスカ・インターナショナル代表スピーチで、中野悦子オイスカ理事長の言葉「命の連鎖農業をオイスカは目指しています」と漢詩の一節、「一年の計は 十年の計は 終身の計は 」 が印象的でした。 中野悦子オイスカ理事長の挨拶の後、理事長を残し訪問団全員で「ふるさと」を歌います。ここでもまた涙です。盛和塾でも全員で歌いますが、ここオイスカも全員で歌います。そうそう開会前に、国歌斉唱、国旗掲揚、黙祷に続き「命かがやけ」(オイスカソング)を歌います。私はまだ覚え切れていません。 まだまだ未開の地、パブアニューギニア独立国ですが、開発されて国民所得が上がればそれで良いのかと言ったら勿論そうではありません。IBMの屋内には、有名な教えが書かれているそうです。雁に餌付けをしていた老人が亡くなり、雁は死滅したと。だからIBMは、餌は与えない、餌の採り方だけを教えると。 地方都市ラバウルから復路は直行便でしたが、首都ポートモレスビーに入ると3日間いたラバウルとは違い都会でしたが、まだまだの途上国です。帰りのギニア航空機内で、「ディ・アフター・トゥモロー」を見ました。地球環境破壊で南極の氷が割れて、世界で三つの大型ハリケーンが大陸に出来て、ものすごい早さで都市が凍り、多くの死者が出るという話です。とても印象的でした。 続き▽ |
2017,10,23, Monday
日本では自民党と公明党の連立政権が大勝し、香川第1選挙区では平井卓也前衆議院議員がその差1,500票という僅差で、小川淳也(希望の党)に勝ったと伝えられています。反面第2選挙区では、玉木雄一郎候補(希望の党)が、3万票の大差をつけて瀬戸隆一(自民)氏を撃破したとも。瀬戸隆一(自民)候補の、比例区返り咲きは果たせなかった。香川第3選挙区は、予想通り防衛副大臣の大野敬太郎氏が大勝と。
また現地のNHKBS放送では、台風21号が大阪へ被害を与えていると伝えています。NHKニュースも、音声は英語ですから詳しいことは分かりません。ホテル内のWi-Fiを使ってこうして小欄を書いています。昨日からの鼻炎性風邪は、中野悦子オイスカ理事長から頂いた鼻炎の薬が効いて、朝からはな水が止まってとても快適です。 本日は、子どもたちの「自然を愛する心」を育みながら、地球緑化を進める「子供の森」計画を実施している小学校の一つを訪ねました。ここの国の小学校は、8年間就学期間があるそうです。従って年長さんは、14歳になります。多数の民族が同居しています。 訪問団女性陣が浴衣を持参して彼女たち代表に着せようとしますが、なかなか交渉は難航しています。「恥ずかしい」は地域を越えて、同年代の共通項です。因数分解のXですね。未知数の可能性を感じます。この中の何人かが、将来国を背負う人材になってくれる? ところでパプアニューギニアという国は、1526年に上陸したポルトガル人が「パプア」と名付け、その後に上陸したスペイン人が「ニューギニア」と名付けたことに始まります。パプアはマレー語の「縮れ毛」を意味し、ニューギニアはアフリカの「ギニア」に似ているからと言われています。 首都は「ポートモレスビー」で「ニューギニア島(本島)」の東に突き出た半島の南にあり、人口約30万人の近代的な都市であります。残念ながら今回は、トランジット(乗り継ぎ)だけの使用になります。パプアニューギニアの総面積が日本の約1.25倍、人口770万人赤道直下にあり700もの島を所有しています。 日本では考えられないことですが、ニューギニア島の東半分が最後の秘境と言われたパプアニューギニア独立国であり、西半分はインドネシアに属する「インリン・ジャン」。ラバウルは、ニューギニア島の東に位置するニューブリテン島の最北端にあり、海から温泉がふき出ているという非常に珍しいところであります。 パプアニューギニアでは、違法伐採が続き切り出した木を運ぶために道を作るなど激しい森林破壊が行われています。こうした乱開発対抗して、オイスカでは子ども達と一緒になって植林活動を続けています。今日も幼子に、オイスカ理念の実践である植樹活動の重要性を伝え植樹をしました。 それもオイスカラバウル・エコテック研修センター職員が、小学生に寸劇で伝えます。日本だったら教室でパワーポイントかな。その後に富山県議団を中心とした「オイスカ富山」が、「おわら風の盆」踊りを踊って盛り上げます。しかし国内では知られたおどりでも、ここラバウルでは全く知られていません。それでも富山団は、根気よく踊ります。 日本訪問団からのパフォーマンスで一番浮けたのは、何と三三七拍子ならぬ、1・2・3・7拍子でした。その前後に三好東陽さんの太鼓が入ります。重要なのは日本人へ、お返しの実践は自分たちがしますという宣誓のようにも聞こえました。これが一番の、意義のあるあるイベントでした。子供の国計画参加校数は、69校にまで拡大しています。 次に平和記念碑での、参拝献花を見て山本バンカー(山本五十六長官が死ぬ前日に会議をした地下壕)を見に行きました。日本海軍が、地下に急ぎ作った会議室があります。ここで翌日1943年4月17日の夜に、山本五十六長官や樋端久利雄航空甲参謀も山本五十六長官と一緒で、この地域の明日を話し合いました。そしてラバウル海域に墜落しました。 記念碑では、日本から持ち込んだ蝋燭線香や日本酒まで、そして献花の花まで全員の分が用意されています。柿沼登氏は、院号の入った卒塔婆(そとば)を持ち込んでいました。国歌を歌い、涙した後黙祷のあと献花をします。「ここに眠る英霊のおかげで、今日の日本がある」と真剣に思います。般若心経を挙げるもの、祝詞奏上をするもの、多才です。 ホテルへ帰る前に、ココポマーケットへ立ち寄りました。大勢の売り子買い子で賑わっています。オイスカ研修センターの産物も、ここで販売するようです。また1985年、オイスカ誘致を熱心に懇願した当時の中央政府厚生大臣であったマーティン・トバデック氏の娘さんから声をかけてきました。オイスカは、ラバウルで有名です。 |
2017,10,22, Sunday
成田空港21日21:15発ニューギニア航空055便は、着陸地ポートモレスビーの天候不良(濃霧)で離陸が、1時間半も遅れました。何の告知もないまま、いや英語では何か言っていたのですが、訳の分からないまま機内で待たされました。お腹は減るし、機内は不穏な会話が飛び交います。日本人添乗員も慣れているのか、1時間以上何の音沙汰もありませんでした。
私は盛和塾香川の機関誌マラソンの原稿提出が遅れていたことに気づき、慌ててこのタイミングで送ったりしていました。私は得した時間帯です。アルコールだけでも出してくれたら許すのに、こういうアクシデントを心配すると、やはりJALかANAにするべきだ。分からないのが、一番の不安です。今の時代ですから、6時間半後の現地の天候も予想が出来る訳です。 ニューギニア航空055便の機内は、本当に狭い。エコノミークラスだから当然と言えばそれまでですが、本当に狭かった。体調不良で鼻水が止まりません。事前に追加のティシューペーパーを6個買い求めたのですが、ポケットに使い屑が増えるばかり。おまけに毛布を希望しても、なかなか持ってこない。スキンヘッドの、強面のCA男性でした。 おまけに席が窓側の席で、これではトイレへ行くこともままなりません。そこで赤ワインにしたのですが、そういう強面人ですからお替わりのワインサービスはありません。隣の川西正廣さんなどは、2本目のビールにありついています。そうは言いながら、少しうとうとしてきました。 ポートモレスビー到着は、現地時間5時過ぎの予定ですが少し遅れました。日本時間では、午前4時の草木も眠る時間帯です。無事にポートモレスビーに到着後、ホテルで食事をしてから国内線に乗り継ぎます。これが実に面白いのです。 昔の日本ではあったのかも知れませんが、船ならぬ飛行機ですが、途中の2空港に着陸離陸をくり返します。その度に乗客が入れ替わり、それなりに満席になっています。私もこんな飛行の経験はありません。ポートモレスビーから最初の空港は1時間少し、高松からなら東京羽田に着く時間です。それからまた日本で言えば北海道へ行く感じ。 パプアニューギニアは、流石に広い。そして鉄道網も高速道路網もありません。このように飛行機が、唯一の長距離移動手段なのです。ここはまだまだ成長しますね。旧日本国帝国海軍を中心とした日本軍が、この地を攻めて一時統治しますが、どうしてここまで長距離遠征をしたのですか。 すべては石油やゴムなどの天然資源物を求めて南下したと言われていますが、それにしても日本から等距離のハワイは一度だけの攻撃に対して、この地域を日本帝国海軍は重要視していました。今日もほんの少しだけ、戦争の爪痕が残るところへ行って、手を合わせてきました。 |