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レジェンドジャンパー葛西紀明
ソチオリンピックのことは、小欄でこれまで全く触れていません。興味がなくて観てない訳ではないのですが、テレビ新聞等で大きく報じられていて、小欄が扱うネタでないというのが私の屁理屈です。ここは、ローカルネタ、旬のネタ、人を褒めるネタしか書かないというのが心情です。

しかし、ノルディックスキー男子ジャンプ団体戦の決勝で、日本が3位に入り、銅メダルを獲得した。このことには、触れない訳にはいかないですね。この種目で、金メダルに輝いた1998年長野五輪以来16年ぶりのメダルを決めたという話題は、私の琴線に響く快挙です。葛西紀明選手は確か日本選手団の団長で、最年長選手ですね。

何と言っても41歳の主将・葛西紀明が最高の仕事をしました。けが等で万全ではないチームの若い衆を引っ張り、メダルへと導いたのです。「一緒にメダルを取るなら、こいつらだと思っていた。後輩たちにも、絶対メダルを取らせてあげたかった」と葛西紀明はインタビューで答えています。

1回目直前の控室。円陣を組み、気合を入れる。「今回は絶対に取るぞ」。清水、竹内、伊東に続き、葛西も2回とも見事に決め、エースの重圧をはねのけた。
個人で銀、団体でも銅メダルを勝ち取った葛西紀明だが、逆境を乗り越えてきた仲間のことを思うと、個人のメダルでは出なかった涙が、せきを切ったようにあふれ出た。

ラージヒルで銀メダルを取った時、後輩たちが自分のことのように喜んでくれた。その時、ふと思った。「僕だけメダルじゃ、みんなは悔しいはず」。けがや病気を抱えながら、ともに戦ってきた大事な仲間たちを、手ぶらで帰らせるわけにはいかなかったと。夏の大会、水泳陣のリレー競泳と同じです。 

長野五輪では、けがもあって団体戦に出場できず、自分だけ金メダルメンバーに入れなかったあの悔しさ。テレビ画面にあの時の映像が流れるたび、何度も悔しい思いがよみがえったことでしょう。当時と比べて世界のレベルも上がる中、団結力でつかんだソチの団体メダル。「長野のメダリストよりも価値がある」と、誇らしげに葛西紀明は吠えた。

今大会の日本人選手は、10代の若者が頑張っています。嬉しいことですが、41歳のおっさんが老体にむち打って頑張っている結果には、万感こみ上げるものがあります。五輪のメダルは、狙ってとれるものではないように思います。実力+神のご加護がかみ合って、金銀銅の3人だけが栄誉に浸れるのです。

それはそうと日本でも、ウインタースポーツを科学するような傾向がここへ来て、結果に結びついているように感じます。昨日団体3位のノルディックスキー男子ジャンプもそうですが、12日に行われたノルディックスキー複合個人で、銀メダルに輝いた渡部暁斗(北野建設)選手のことです。

「マルチサポート・ハウス」など、文部科学省のマルチサポート事業を最大限活用して、複合では20年ぶりとなるメダル獲得につながったと言われています。複合の日本代表選手団は選手村ではなく、山岳会場のマルチサポート・ハウスに宿泊して、共同生活をしています。

小型ホテルを貸し切りにしたこの施設は、複合会場から車で10分。日本人シェフが調理する日本食を3食食べることが出来る。大浴槽もあるそうな。トレーニングマシーンやマッサージルームもあり、中には高周波治療器も備えてある。もちろんメディカルコーチもいる。

渡部選手は「軽いトレーニングは敷地内で出来るし、日本人ばかりで日本語で生活できる。食事も含めて最高と褒め称えている。また肝心の用具面でも、マルチサポートを活用している。スキー板の滑走面に入れる細かな溝を入れるための装置を導入。

さらに日本のスキー用ワックスメーカーから3人の技術者が現地入りして、ソチのその日の雪質に合わせたワックスを用意し、長い10㎞を短い10㎞にしたりと、選手をサポートしている。それらが功を奏して、選手の競技力が伸びている。手厚い側面支援が生んだ渡部暁斗(北野建設)選手の銀メダルだった。

渡部暁斗選手は試合後、「(優勝した)フレンツェルより僕のスキーの方が滑っていた。自然に前に出られた」と話している。私のような下手くそが、ただ単に下へ滑るだけでも、ワックルの良し悪しは大きく影響するのです。長い距離のアップダウンでは、ワックスの差は実に大きいと思います。

過去の五輪で、荻原兄弟がクロスカントリー競技で北欧の選手に負けた。私は、ワックスの差だと思いました。今回は溜飲が下がりました。本当に、その程度の差が、メダルを決めるのですよ。オールジャパン、みんなでメダルを獲りに行け。


| http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=2588 |
| 社長日記 | 10:34 AM | comments (0) | trackback (0) |
懲りずに上京しました
前回14日(金)は全国的な大雪で、高松空港からの便は、朝一番のANAが飛んだ以外、すべて欠航になりました。とは言いながら、昼前後のアシアナ航空ソウル行きは果たしてどうなったのかと気になるところです。しかしもう、終わったことを心配してもせんないこと。

気分一転、本日は快晴の両空港でした。私は多くの場合、朝一番機に搭乗すると決めています。14日のようなアクシデントは、私も生涯初めてで、そうあるものではありません。しかし霧のための欠航便は、結構数あると聞きます。高松空港から住まいが近い(田舎住まい)ということもありますが、1番機に搭乗するのは前夜から飛んできて駐機しています。



停まっている飛行機は、必ず飛ぶと私は信じています。金曜日に上京して帰って、また月曜日に行くなら泊まっていても良さそうなものですが、日曜日に「中西直子」の一周忌がありました。私との血のつながりはありませんが、高商の後輩で、かみさんの縁続きです。

かみさんの親戚ですが、良く出来た子でしたが54歳という若さで他界しました。「できの良い子は早く逝く、悪いのが残る」と言われますが、その通りです。直子の姪も、来ていました。そうそう彼女は香東中学校に在学しています。「教頭の高町先生知ってるか」と聞いてみました。

高町先生は、一昨日の「香川県北方領土視察団」の団長さんです。私は好印象を持ったもので、そんなこと言わずに聞いてみました。「いるいる私の大好きな先生で、ブログ書いているのが今一番読まれているよ」と教えてくれました。子供の心を鷲づかみのようです。ブログの様子は下記アドレスで。

本日は、全宅管理(全国賃貸不動産管理業協会)のワーキング(グループ)の検討会です。座長は、佐々木正勝業務企画委員長です。金曜日は飛行機のことなど気遣ってくれて、何度も電話メールを頂きました。総会までに、まとまれば良いと思っています。

今日は昼食も委員会支給されたもので、特段のネタなし。JR神田駅構内は工事中で、ごたごたしています。改札口を間違えると、もう自分の位置が分かりません。駅前の雑踏の中で、チョイと一杯やっていきたい衝動に駆られます。新橋なんかとよく似た雰囲気の店が、ここにもあります。

逆に東京駅八重洲口(皇居のある丸の内口の反対)は、前面道路を除いて建物自体は完成していました。高速バスのターミナルが、あらたに完成しています。丸の内口のホテル等ライトアップとは違った、こちらは近代的な建物に仕上がっています。

テレビで皇居の見学について、告知がされていました。皇居内が見られるなら私も行ってみたい。恐らく千倍ほどの競争率になることでしょう。

香東中学校ニュースは

| http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=2587 |
| 社長日記 | 10:22 AM | comments (0) | trackback (0) |
とんび
私は「とんび」を、堀江貴文氏の著書「ゼロ」で知りました。獄中にあった堀江貴文氏は、パソコンが使えないことから「本」を読んだと自身が上梓した獄中記「ゼロ」の中で書いています。「とんび」は、鳶(とんび)が鷹(たか)を生むの例えから、「とんび」の著者重松清が名付けたものです。

「ゼロ」の中で、堀江貴文氏は「とにかく泣いた」と書いています。私も早速取り寄せて、読んでみました。私の読書は、電車バス飛行機などの移動中が多くて、「とんび」を読みながら泣いている初老のおじさんに、周りはどう思ったのでしょうか。私も号泣する方ですから、周りは迷惑したことでしょう。

最後は欠航となった今月14日、JAL1402便の24Hで終えました。30分ぐらいは機内に座っていました。その前の時間も、いつもより早めの空港入りしたもので、ここでも読む時間がとれました。「とんび」の最終章を読むのにワクワクしていて、下ろされたのも腹が立ちませんでした。

様子の変な私のことが気になったのか、スッチーが飴をくれました。14日の日記に掲載した、あのピンク色の飴です。本当はコーヒーが飲みたかったのですが、厚かましい私でも、その要求は出来ませんでした。飛行機が飛ばなかったら客ではありませんから。

『とんび』は、重松清による日本の小説です。2003年10月から2004年7月にかけて『中日新聞』と『東京新聞』『北陸中日新聞』(いずれも中日新聞社発行)および『北海道新聞』『西日本新聞』『神戸新聞』などにて連載されていたものを文庫本にしたものです。

広島県を舞台に、妻を失った父親(市川安男)が息子(アキラ)の反抗期や学校でのトラブル、受験、自立、意外な女性との結婚など様々な困難に直面し、不器用に戸惑い、悩みながらも息子の幸せを第一に考え、周囲の支えを受けながら男手一つで息子を育てた父の半生と親子の絆を描いた作品になっています。

何人かに「とんび」の話をしたところ、テレビで観たとか、映画で観たとか言われましたが、映画化はされていないようです。同名でテレビドラマ化はされ、NHK総合テレビで2012年1月7日(前編)と1月14日(後編)に放送され、TBSでも連続ドラマとして2013年1月13日から3月17日まで放送されたとウィキペディアフリー百科事典には書かれています。

TBSの連続ドラマは、あの流行語大賞になった「半沢直樹(堺雅人主演)」の前番組だったようです。私はこのトンビは観ていませんが、いずれのドラマ化作品も、テレビドラマ関連の賞を受賞してと言うものの、原作とドラマ化は確かに違うようです。話題になった半沢直樹は、私のようなドラマ音痴でも観ました。

私はこの作品を読んで、「父親」も「子供」であったという気づきがとても印象的でした。高度経済成長時代の1962年(昭和37年)、運送会社に勤務する28歳のヤスは愛妻・美佐子の間に息子・アキラが誕生し、生涯最高の喜びに浸っていたところから物語ははじまります。舞台は瀬戸内海に面した広島です。

単純馬鹿を絵に描いたようなヤスに、出来すぎた愛妻美佐子、加えて小林旭のアキラと名付けた男子が誕生します。長じて早稲田大学(誰か明大出身の作家はおらんのか)へ進学し、東京の出版社に就職し、年上のバツイチ子持ちと結婚すると言い出します。

そんな頃に、幼少期に捨てられ顔も知らない自身の父親が、現在の息子に託して死に目に会いたがっていることを知ります。ヤスさんは、アキラが息子で自分が父親の関係しか考えたことがなかったのですが、ここで自分も息子だと言うことに気がつきました。驚きうろたえますが、自分の運送会社深夜便に便乗し上京します。

そして病院で寝ている実父の手を握り、この手が自分の頑健な身体と手のひらをくれたのだと考え、涙します。そしてそのまま、実子(これも再婚した妻の連れ子でヤスとの血縁関係はない)が、「せめて一目だけでも」と止めるのですが、そのまま病院をあとにします。

その後アキラが女を連れて、広島へ帰ってきます。勿論ヤスは、アキラの選んだ嫁に反対はしません。それどころか、今の二人の間の子供(女の連れ子)はヤスが父親として面倒を見る。アキラ夫婦は、生まれてくる子供を大事にしてやれと言います。

このように馬鹿なヤスは、血のつながりと同じように、「家族」となった縁を大事にするのです。ヤスの親友、なまぐさ坊主と呼ばれる照雲夫婦も、自分の子供がいなかったこともあってアキラをわが子のように愛でます。なまぐさの御尊父海雲和尚の言葉も胸に滲みます。薬師院本堂で呑んでいて急に、アキラを連れて4人で夜の海に行きます。瀬戸内海の海ですから、石巻などに比べたら暖かいのですが、それでも車の外は寒い。

「アキラ、これがお父ちゃんのぬくもりじゃ。お父ちゃんが抱いてくれたら、体の前のほうは温うなる。ほいでも、背中は寒い。そうじゃろ?」「お母ちゃんがおったら、背中のほうから抱いてくれる。そうしたら背中も寒うない。お父ちゃんもお母ちゃんもおる子は、そげんして体も心も温めてもろうとる。

ほいでもアキラ、おまえにはお母ちゃんはおらん。背中はずうっと寒いままじゃ。お父ちゃんがどげん一所懸命抱いてくれても、背中までは抱ききれん。その寒さを背負うということが、アキラにとって生きるということなんじゃ」

「背中が寒いまま生きるいうんは、つらいことよ。寂しいことよ、悲しゅうて、悔しいことよ」「アキラ、おまえはお母ちゃんがおらん。ほいでも、背中が寒うてかなわんときは、こげんして、みんなで温めてやる。おまえが風邪ひかんように、みんなで、背中を温めちゃる」。海雲和尚の台詞です。その後和尚の死も、描かれています。

もう一つ、とんびは男世界を主に描いていますが、ヤスを実弟のように世話する居酒屋「夕なぎ」のたえ子さんがいますが、彼女にも嫁ぎ先に残した女の子がいました。その子が結婚式の前に、夕なぎを訪れます。女の心情も、見事に綴られています。

私は10歳で父親を失い、母に育てられました。ヤスさんと逆ですが、同じように、どのように父親として息子に接したら良いのか見本を知りません。自分もヤスさんと同じ、ドジな父親だとあきれています。そしてアキラと同じように、沢山の人に背中を温めてもらいました。



| http://nobuchin.0011.co.jp/index.php?e=2586 |
| 社長日記 | 09:49 AM | comments (0) | trackback (0) |
北方領土は我が国固有の領土です
~まずは知ろう!北方領土について~、香川県北方領土返還促進協議会主催の北方領土「現地視察報告・出前講座・元島民の講話」が、香川県社会福祉総合センター1Fコミュニティホールで開催されました。香川県北方領土返還促進協議会事務局は、香川県総務部広聴広報課が担当しています。国策です。

安倍第二次内閣は、北朝鮮問題と北方領土問題の解決を大きな命題としています。いずれもロシアのプーチン大統領が、キーマンであります。だから安倍晋三首相も、ソチ五輪開会式に弾丸ツアーで、プーチン大統領を表敬訪問した訳です。

冬のソチ五輪も日本にとっては重要な外交舞台ですが、2020年東京五輪もロシアの思惑次第のところがあります。東京五輪も、ロシアが放射能汚染を海にばらまく日本に開催の任は重いとか言い出したら、日本開催の決定はなかっただろうし、これからでも日増しに汚染濃度が高まっていると言い出したら、世界中の物議を醸し出すことになりかねません。

そんなこととは別に、安倍第二次内閣は、日本国民に北方領土問題を知らしめようとしています。庶民の思い込みの「風花」が為政者には、辛い悲しいむなしい心情です。専任大臣を置いて、国民の関心のなさを嘆く前に、自ら潮時を作ろうとしているようです。

まずは元島民の講話でした。「元島民が語る北方領土」木元護さん(国後島出身)が、昨年11月から語り部として全国へ行って話しているようです。年の頃なら70歳半ば、確か終戦を小学5年生頃迎えたと言っていました?御尊父が国後島最大規模の木材製材業工場の責任者だったと話していました。







実は太平洋戦争は、1941年12月8日真珠湾奇襲攻撃に始まり45年8月15日ポツダム宣言受諾で終戦を迎えたと言われていますが、当時のソ連(現ロシア)は、8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦をしてきました。もっともその裏には、米英首脳のソ連参戦への陰謀があったのですが。

終戦後8月24日千島列島のシュムシュ島を皮切りにソ連軍は南下し、8月28日に択捉島、9月1日~4日にかけて国後島、色丹島、歯舞群島に侵略してきたと元木護さんは話しました。そして日本人に銃口を向けて、樺太からシベリアへ島民を抑留したのです。

この暴挙に、担任と校長は、「星条旗さえあれば」と嘆いたそうです。ソ連軍は、上陸に際して、アメリカ軍の力が及んでいないことを慎重に見極めて、侵略をして、島民を追い出し、途中の貨物船内はトイレも不足して、上げ下げの臭いで人間扱いはされなかったそうです。当然の如く、人権などありません。





そして私も今日初めて知ったのですが、「太平洋戦争は北方領土で始まり北方領土で終わる」。「北方領土で終わった」というのはこれまでの説明で十分だと思いますが、実は真珠湾攻撃のスタートは択捉島の単冠湾からなのです。航路は奇襲成立のため隠密行動が必要であり、困難な北方航路が採用されたのです。

南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は、11月22日に択捉島の単冠湾に集結。出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃することを告げたのです。そして11月26日、南雲機動部隊はハワイへ向けて出港して行きました。

しかしこれは敵の目を欺く意味と、また別のしたたかな理由がありました。択捉島の単冠湾から真珠湾までは5864㎞。関東からの距離は6518㎞。6518-5864=654㎞。この距離を時速25㎞で航行すれば、26時間の短縮になる訳です。飛行機航路の、アラスカ経由と同じ理屈です。地球は丸いのです。

第2幕は、「根室高校(在校生580名)と根室西高校(同164名)生による北方領土出前講座」です。根室の若者の間でさえ関心が薄まる北方領土問題を直視するために、高校生で考え語る「出前講座」を根室市内はもちろんのこと、全国へ展開しています。署名活動やゆるキャラ動員、いろいろな手を使って「返せ!北方領土」熱を喚起しています。





最後は、香川県下の中学高校生28名の現地視察報告でした。団長の、高町浩伸教諭(高松市立香東中教頭)の解説も上手かったですね。大変好感が持てました。強制感もなく、べき論もありません。こういう先生が、意識の高い学生に人生の目的を示唆するのでしょうね。

歴史的に見ても日本が主張する北方領土4島、「歯舞群島(貝殻島(かいがらじま)等多数の島からなる諸島)・色丹島・国後島・択捉島」の日本帰属は、間違いのないことであります。どの時点でもソ連(ロシア)が領土化したことはないのは明々白々です。あくまでも戦後のどさくさ紛れに、卑怯なソ連軍が取り込んだ結果であります。

しかし現在、ロシア連邦の実効支配下にあり、ロシアと日本双方が領有権を主張している訳です。仮に盗まれた有名絵画であっても、オークションに出展されれば文句を言わず買い取らざるを得ない。そうする以外、自分のところへは2度と帰らないのですから。

北方領土問題も、金銭的解決策もあり得ると心すべきであろうと私は思います。正義論だけでは、日本の実効支配はありません。仮に2島でも2島半でも、まずは第一歩を踏み出すことが大切ではないだろうか。ロシアとの共同開発でも良い。ここは、これからの日本の100年、1000年の歴史を作る正念場ですよ。


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| 社長日記 | 12:00 AM | comments (0) | trackback (0) |
2014年2度目の大雪は東京移動と重なるが
今年2度目の大雪注意報が、四国から関東の広い範囲に出されています。よりによって、ひどい日の上京になりました。自宅の前からもう雪です。行けるところまで行くと決めて、少し早めに自宅を出ました。

と言うのも、高松空港は高台にあります。空港までも無事辿り着くかどうか。と言いながら、久しぶりの雪山気分を味わっています。最近はスキーのお誘いもめっきり少なくなりました。こんな時に、雪道の感触を楽しんでいます。しかし、流石に空港へのアプローチ道は、早くも途中停車の車もあります。

オートマチック車ですが、ギヤーを3速に落とし、停まらないように慎重に上がります。最後の左巻き車線に、数台の車が立ち往生しています。ここで停まると、恐らく発車が難しいでしょう。とっさに大きく廻ることにしました。もちろんこんなルートをとるのは、初めてです。

立ち往生の車を尻目に、どうにか県営駐車場まで辿り着きました。ここに駐車している車は、車体に大雪を被っています。地上より降雪量は、明らかに多いです。スピードパーキングは、本日臨時休業です。早朝に断りの電話が入りました。仕方がないでしょうこの雪では。

最近はJALからの搭乗案内も、天候調査中であることも、時間変更も頻繁にメールが来ます。定刻7:35分が40分遅れとメールが来ました。早期の情報開示は良いですね。午前8時現在、高松空港は羽田便1便が飛んだ後は、運休と告知されています。成田空港への格安航空会社LCCは、早くから運休発表です。



結果的には、JAL1402便の指定席に着席してシートベルトまではしましたが、結局欠航になりました。その知らせもメールが、機内発表より10分程度早かったです。私は欠航を知っていましたが、機内のアナウンスに「エー」という声が多く上がりました。

搭乗前に、本日の全宅管理(全国賃貸不動産管理業協会)佐々木正勝業務企画委員長から案ずるメールが来ていました。搭乗後も機長の計らいで、滑走路の除雪に時間がかかっているので、その間は携帯の使用も許可されました。私もこのような経験は初めてですが、羽田から高松への1便は、羽田空港へ引き返したようです。



飛行機から降りて、駐車場で愛車を見ると、僅か2時間少しでこれほど雪が積もっていては、滑走路の除雪もままならないと思いました。もともと映画「大空港」のケネディー国際空港のように、常に雪対策が必要な空港とは違います。

後で聞いた話しですが、JAL1便の欠航が決まってわれわれは空港ビル内に帰りましたが、それでもANA1便は、機体の除雪を真剣にやっていました。「本気で飛ぶ気か」と思いました。滑走路の除雪も整い、2時間半遅れて羽田空港へ飛んだようです。しかし安全一番。私はJALの判断に、概ね納得です。

しかし、駐車場料金を課金するのはどういうことですか。高松空港へ到着した飛行機はありません。従ってここを出る車両は、今朝ここへ来た車両です。言いたくはないけど、どうなっとるのですか。450円返せと、声を大にして言いたいものです。言われるのを察知してか、いつもの係員は誰もいません。係員は悪くない。責任者出てこい。

機内で貰った飴 幻の搭乗控え

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| 社長日記 | 08:10 AM | comments (0) | trackback (0) |
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