2015,05,31, Sunday
高南支部支部長や、協会副会長を歴任された久保喜治さんの奥様、文子さんが逝去されました。3月10日に癌が発見されて、3ヶ月足らずの命でした。享年満82歳、平均年齢に届かない早い死でした。お世話になった関係者の一人として、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
久保文子さんは、支部の事務局を担当する喜治さんを補佐し、また支部旅行の計画では、豊富な知識を披瀝して、プロをも驚かす経験に支えられた意見を頂戴する機会も多くありました。人数合わせは、久保文子さんの担当でした。友達が多い人で、一声5人はお手の物の人脈でした。 本日の葬儀告別式には、東京から帰ったばかりの日下雅彦会長も参列下さり、日曜日にもかかわらず、大勢の業界人や友達におくられて、霊柩の人となりました。香川県不動産コンサルティングマスター研究会の日下照邦会長、REG(Real Estate Group)香川県不動産同友会、高南支部の皆様もありがとうございました。 ところで喪主久保喜治さんの話ですが、文子さま23歳での結婚でしたが、喜治さんは夜間大学の学生さんだったそうです。久保喜治さんは、苦学生ですが、長じてからもよく勉強されていました。私と共に、大阪宿泊を伴うセミナー受講も行きました。その時の留守が、当然文子さんです。 ご自身も、このころから書道を学ばれたようです。愚息もほんの少しだけ久保書道塾に通いましたが、お世話になりながら、次男の字はいまだに学習効果がありません。もう少しの辛坊かと思います。 その文子さんですが、書の世界で数々の受賞をされています。喜治さんが、実に上手く会場展示しています。その作品群は際立っていて、何日も前から企画したのかと間違うほどの出来映えでした。 本日の葬儀会館は「ネクスト舟岡」ですが、会館側も良いアドバイスを頂いたのと違いますか。葬儀会館も利用者総数が確かに増えていますが、家族葬が求められるように、ひと味違った企画が使う人の口コミを広げます。 |
2015,05,30, Saturday
先月末、盛和塾有志で原田悠理さんのディナーショーを観る前に、盛和塾鹿児島塾生の計らいで、鹿児島県指宿(いぶすき)温泉白水館の代表取締役下竹原啓髙氏の話を聞く機会を得ました。下竹原さんは、三菱商事に30年間奉職し、長くニューヨークに在住されたとか。
先の小欄にも書きましたが、薩摩藩のいや日本の近代化の発祥となった尚古集成館や、それに続く近代日本への柱、「製鉄所」などの施設がここ鹿児島にあります。抜け荷(密貿易)で得た巨万の富となり藩の財政を支えて、明治維新の薩長同盟の活躍に繋がるわけですが、それに貢献した一人、「浜崎太兵次物語」です。 下竹原啓髙さんの話しの中に出てきた、浜崎太兵次の活躍の半分くらいが「豪商伝」で紹介されています。下竹原さんの話しでは、もっとワクワクするような浜崎太兵次談がありました。豪商伝は、平成16年3月の角川書店からの初版です。 日本史に紹介されるほど有名な話しですが、薩摩藩は徳川幕府の鎖国政策の時代に、長く抜け荷をやっていました。それは、ある程度幕府も容認していたところがあります。しかしやり過ぎると、幕府はペナルティーを課しています。隠密も、密告も盛んな時代です。 そのため幕府は、加賀100万石に続く石高2位(77万石)の薩摩藩に44日にも及ぶ参勤交代や利根川の治水工事などを命じて、薩摩藩の蓄財を困窮させることをやっています。幕府は、薩摩藩を恐れていたのです。その裏返しに、徳川家との婚礼も薩摩は応じています。大河ドラマ「篤姫」でも、紹介されました。 ここで紹介する浜崎太平次を、下竹原啓髙さんは冗談で「浜崎あゆみ」の先祖と言っていました。今から150年前の幕末期に活躍した指宿の商人です。指宿が生んだヤマキ(濱崎家の屋号)の第八代濱崎太平次(はまさきたへいじ、1814~1863年)の面白い人生です。 その死後、時勢の激変に加え、後継者がいなかったため濱崎家は凋落。一時代盛大を極めた浜崎太平次でしたが、今日、鹿児島でも知る人ぞ知る的歴史上の人物になっています。そのために、浜崎あゆみが登場したのか。確か浜崎あゆみは、九州ではあるが博多の出身だったかな。 冗談はさておき浜崎太兵次は、「山木」の屋号で代々廻船商を営む浜崎家の8代目当主です。指宿で誕生した山木屋ですが、初代から大きな商いをしていたようです。5代目の太左衛門は海運業をさらに事業を発展させ、日本の長者 263人中の一人に入る程でした。 時の薩摩藩第9代藩主島津斉宣(なりのぶ)公が、保養のため指宿村の長井温泉を訪れると、自宅内に『御座間』という貴賓室を建てて島津氏の別荘としたほどです。 ここに、ヤマキは全盛を極めますが、第7代太平次の時になぜか家運が傾き、その長男として生まれた第8代太平次は、収穫が終わった畑で唐芋を拾って飢えを凌ぐような少年期を過ごしています。第7代目は、同業者の密告により失脚したことが後に分かります。 長じて「若山木」の名で呼ばれた浜崎太平次は、14歳頃からの敏腕ぶりが豪商伝で紹介されていますが、なかなかの評判者だったようです。この豪商伝でも後付けで紹介されている、彼の生涯を綴った伝記「浜崎太平次唐船太平記」は次のように述べています。 風雲急を告げる幕末、一葉の船に身を託して雄々しく海洋に乗り出し、貿易・運送・造船の大事業を成し遂げ、紀州の紀伊国屋文左衛門、加賀百万石の銭屋五兵衛とともに、江戸時代の『実業界の三傑』と呼ばれた薩摩の豪商が(8代目)浜崎太兵次です。 天保9年(1838年)、調所広郷(ずしょひろさと)は家老職につくと、藩の財政改革に着手しました。浜崎太兵次は調所広郷の内命をうけて、密貿易や砂糖運送などに活躍するなどして、薩摩藩の財政再建に貢献します。ヤマキの船は、薩摩藩のご用船になります。この頃から、○に十の紋がしらと、日の丸を付けています。 文政期(1818~1830年)、薩摩藩の借金は 500万両の巨額に達していて、参勤交代さえもままならぬ窮状にありました。広郷は、商人の借金を無利子で 250年の分割払いにさせ、琉球を通じて清と密貿易を行なう一方で、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制にし、商品作物の開発などを行うなどの財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に 250万両の蓄えが出来る程にまで財政を回復させました。 浜崎太兵次は、薩摩藩家老調所広郷が行った薩摩藩財政再建に身を賭して貢献し、薩摩藩の財政政策に関与、唐物商いと黒砂糖商いで藩に多大の利益をもたらし明治維新の原動力ともなった九州一の大商人なのです。いや一時は、日本一だったかも知れません。 太平次には一男一女がありましたが、男の子は24歳の時、父の死後3年目に鹿児島で病死して、太平次の弟の彌兵衛の長男が後を継ぎましたが、次第に家運が衰えて、湊の潮は減ってもヤマキの金は減らないといわれた濱崎太平次家も、明治以後の時流に乗れないまま、明治43年に断絶してしまいました。 先にも書きましたが、浜崎太兵次が稼ぎ出したその資金が、明治維新の原動力となって新しい日本の夜明けを迎えることになりますが、若干50歳のときの大阪での客死はまことに残念です。文久3年(1863年)ことです。 私はこの豪商伝のなかに、もう一つの意味を感じます。浜崎太兵次も、海外との貿易で巨万の富を稼ぎ貢献しましたが、もう一つ外国のことも伝えたことでしょう。幕府の鎖国政策に異を唱え、薩長同盟の熱い思いも、浜崎太兵次らの考えを踏襲したものじゃないかな。 西郷隆盛も登場し、加賀百万石の銭屋五兵衛(銭五と呼ばれています)が北海道利尻から運んだ昆布を、山口県当たりの港で受取、それを琉球へ運んでいます。自らも北海道へ行った浜崎太兵次ですが、銭五と知り合い、途中で交換する術を編み出します。もちろん銭五は、唐物を受取北へ運びます。 いまも沖縄県では、多くの昆布が消費されていますが、その原点は浜崎太兵次だったのかも知れません。浜崎太兵次は調所の死から15年後、斉彬公の死か5年後に客死したのですが、太平次が亡くなって5年後に明治維新が起こり、日本は近代化への道を歩み始めます。 今回の鹿児島入りで一番好感を持ったのは、指宿白水館の代表取締役下竹原啓髙氏でしたが、下竹原氏の先代も面白いので、いずれ小欄にも登場するでしょう。もちろん氏の語る浜崎太兵次も、大好きになりました。下竹原さんが近くにあるという、先端医療施設も非常に興味があります。 話が逸れますが、この先端医療施設の説明を聞いて、隣になった小林塾生(医学博士)の話を重ねて、買えってすぐにアフラックへ相談しました。池田ほけんの窓口グループの丁寧な説明で、私も妻も初年度分を振り込みました。始期は6ヶ月後だそうですが、ここの施設の世話になることもあるかも知れません。 西郷どんも、登場しました。幕末の薩摩が起こした「生麦事件」、その背景にあった思想、英国と闘い翌年には若者を英国等へ留学させる柔軟性に富む鹿児島県民性。やはり集結は稲盛和夫塾長へ辿り着くわけですが、こんな鹿児島が生むべきして生んだ偉人の一人が、稲盛和夫塾長ですね。 |
2015,05,29, Friday
全宅連を含めて5団体の総会を来月に控えている組織の、最終理事会です。午前から始まり、夕方まで続くようです。私は全宅管理(全国賃貸不動産管理業協会)の理事ですから、11時には会場の新橋第一ホテル入りしています。昨晩は高知で、高知黒潮ライオンズクラブのメンバーと楽しくやっていました。
今朝は5時に起床し、6時前には「高知龍馬空港」行きのバスに乗り込みます。昨日は高知の連中から、ドリングを2本頂きました。さすが高知、これはよく効きました。こんな風にして、高知県人は付き合いをしているのでしょうか。 高知龍馬空港から羽田へのJAL477は、7:10の離陸です。高知の繁華街から、空港まで、早朝ですから30分程度。私はこの空港からのフライトは、2度目です。最初は、REG(Real Estate Group)香川県不動産同友会の旅行で高知に来ていて、次の日がゴルフでした。ゴルフ場へ行くバスで、高知空港へ降り立ちました。 確か、大学の同窓三浦慶明の結婚式だったと思います。この式で、友人代表の挨拶をさせてもらいました。彼は前途洋々な銀行マンでした。よく覚えていますが、最近は音信不通です。残念です。大勢で銀行マンに、おんぶにだっこ。飲み代は、三浦のおごりが多かったです。そのせいか、最近は声がかかりません。 さて理事会ですが、やはり一番乗りは高知の氏原光隆理事です。昨日高知県宅建協会総会の会場で、偶然鉢合わせをしました。彼も同じ便で、新橋まで来たようです。高知県宅建協会は総会後、100人弱ですが、みんなでご苦労さん会をやるようです。 高知からだと次の便が、9:30頃だったと思います。山下会長や藤本武志前会長は、その便ですね。私も昨日高松へ帰れば、東京便も格安です。高知から東京、東京から高松は割引がありません。それでも高知黒潮ライオンズクラブのメンバーと、楽しくやれたことには替えられません。 理事会では、総会議案の確認と承認がありました。2月26日に空家等対策の推進に関する特別措置法の一部施行がありましたという記述で、私は「5月26日から全面施行」になっているからと嘆願をしました。委員長からは、3月末までの出来事だからと指摘を受けました。 それはおっしゃる通りです。しかし今日現在、法案は全面施行されています。総会は6月末です。私はそれ以上は言及しませんでしたが、この法律は、私は大きな意味を感じています。特定危険家屋は、解体命令が出ます。行政機関の代執行もあり得ます。 せめて総会案には、括弧書きで(5月26日全面施行予定)とか入れて貰えないかと思いましたが、言うことをはばかりました。池上委員長のもと、私も総務委員です。彼の困る顔は、見たくありません。 |
2015,05,27, Wednesday
平成27年度定時総会等、関連5団体の定時総会でした。高松市屋島西町の高松テルサで、27日午後1時から開会し、5団体の総会が閉会したのは4時間後の午後5時でした。
そこから高松国際ホテルに移動して、公益社団法人香川県宅地建物取引業協会第2回理事幹事会、一般社団法人香川宅建第2回理事会が開かれました。この日が、1年間で一番疲れる一日です。 副会長の私は、議案の報告者になったり議長になったり、変幻自在という格好いいものでは決してありませんが、関係団体と言っても、独自の組織ですから自ずと内容が違います。社団法人法がかわり、本協会もやがて創設50年を迎えますが、今は公益社団法人と一般社団法人の香川宅建2つに分かれています。 そのため理事会がこれまで以上に重視され、多くの議案が総会報告になっています。決議事項は、平成26年度決算承認案件と、入会金改定案、定款一部改定案と監事退任に伴う補選案件だけです。後ろがなければ、決算だけが総会決議案件となっています。 総会は無事終わりましたが、本日のハプニングは、冒頭にありました。今年も主役はやはり私です。昨年に引き続き、「開会の辞」を仰せつかったのですが、昨年は、「開会します」とだけ喋って降壇しました。これについて、複数の場で叱責を受けました。 そこで今年は、香川県知事浜田恵造香川県知事をはじめとする来賓への感謝、総会出席の会員さんへの感謝と、最後に前日26日に全面施行になった「空家等対策の推進に関する特別措置法」のことを付け加えました。そして最後に、「閉会します」とやってしまったようです。 本人の意識には、当然「開会します」としか台詞がなく、原稿にもそう書いています。「閉会します」と言った意識は、全くありませんでした。日下雅彦会長に指摘されて、それはまずいと訂正しました。これまた理事会懇親会で、話題になりました。笑って「良いじゃないか失敗は誰にもあるよ」、多くは容認されていました。 自分の深層心理の中では、早く終わりたいという強い願望があったのかもしれません。「後段がいらなかったではないか」「余計なことに触れたから間違った」ともいわれましたが、この私の発言に、勝又副市長が反応しました。私の企ては、捨てた物じゃないと自画自賛。 (全国では820万戸の空き家)「高松市内に14万戸の空き家があって、放置されている家屋が6,000戸、その内危険水域にある特定空き家が900戸ある」と来賓挨拶で触れてくれました。流石国家公務員キャリア出向組です。常に有意注意の中に、自分を置いています。高松市は、市長の活躍も有りまだまだ捨てた物じゃない。 |